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 マホガニー製のドアに取り付けられた真鍮の丸いノブを回し、手前に引く。
 ダイニングルームには既に和臣がいた。佐祐理は室内へ足を踏み入れ、挨拶する。
「おはようございます、お父様」
「ああ、おはよう。佐祐理」
 窓から見える空は、分厚い灰色の雲に覆われていた。朝早く弁当の準備をしていたときに確認したところ、今日の降雪確率は五十パーセントだった。忘れずに傘を持っていこう、と佐祐理は思った。
 席に着くと、すぐに食事が運ばれてくる。今日は上海風の朝粥だった。
 花茶の注がれた茶碗を手に取ると、ジャスミンの馨しい香りが周囲に満ちる。佐祐理は一口飲んで、喉を潤した。
 そういえば、と佐祐理は思い出す。以前舞が遊びに来たとき、ジャスミン茶を出したところあまり好評ではなかったことを。「芳香剤みたいな匂いがする」と舞は言っていた。
「佐祐理」
 和臣が不意に佐祐理の名を呼んだ。見ると、和臣の食事にはほとんど手が付けられていない。
「はい、なんでしょうか」
 茶碗を置き、佐祐理は答えた。
「……昨日の帰りはずいぶんと遅かったようだが、何かあったのか?」
 ああ、やはりそのことか、と佐祐理は内心納得した。
「昨日は友人の用事に付き合っていて、遅くなってしまいました。ごめんなさい。急なことでしたので、連絡を入れる暇もなくて」
「友人というのは……舞君のことかな?」
「いえ、一学年下の後輩で、相沢祐一さんという方です」
 答えながら、佐祐理は父がその名を既に知っているだろうと考えていた。過去に起きたことを考えれば、両親が自分の行動に注意を払っていることは想像にかたくない。
 和臣は言いにくそうな様子ながら、さらに続ける。
「あまり詮索するのは良くないとは思うのだが……その用事というのは……」
 佐祐理は父親の言葉の途中で、きっぱりと言い切った。
「いえ、お父様が心配なさるようなことは何一つありませんでしたから」
 佐祐理自身にとっても意外に思うほど、それは強い口調だった。祐一の事情を他者に話すことに、佐祐理が抵抗を感じたためだ。
 和臣は少したじろぎ、視線を逸らす。
「……そうか。すまなかった」
 その傷ついた様子を見て、佐祐理はすぐに後悔した。和臣が自分を案じてくれていることを疑ってはいない。それなのに、どうしても素直に接することができなかった。
 そのとき、ふと昨日の祐一が行った言葉が心に浮かんだ。
『世界中の誰だろうと、自分の行動が本当に正しいのか知っている奴はいないさ』
 ああ、と佐祐理は胸の内で嘆息する。父もまた同じなのだと――佐祐理のことでも、そして一弥のことでも。
 それは考えてみれば当たり前のことだった。一弥にとって何が最良の道だったのか、それを和臣もまた知らなかったのだ。そこには唯一の回答などないのだから。
 佐祐理と同じく、和臣も傷つき、己の不明を恥じたことだろう。彼は父親という立場であるがゆえ、より責任を感じたに違いなかった。それでも、和臣は今一人残された娘のために、強くあろうとしてきたのだ。
 理性で知ってはいても、心で理解していなかったのだと佐祐理は気付く。和臣を尊敬していたからこそ、父親もまた一人の人間であることを認められなかったのだと。
(祐一さん。佐祐理はやっぱり、頭の悪い女の子です)
 心の中で祐一に呟く。そして気落ちした様子の父親に向かって言った。
「――今のところは、ですけどね」
「なっ……」
 驚いた様子で、和臣が視線を戻した。
「だって、今はまだ佐祐理の片思いですから。これからどうなるかは、佐祐理にも分かりませんよ」
 にこやかに言った佐祐理に、和臣は目を白黒させた。
 傍らから、くすっと笑い声が聞こえた。佐祐理がそちらを見ると、家政婦が顔を赤らめ、こほんと軽く咳払いする。佐祐理は少し照れながらも、彼女に笑顔を返した。
「……まあ、それはお前の決めることだ。とやかく言うつもりはない。が、その……あまり先走ったことはしないように」
 複雑な表情で言う和臣に、佐祐理はふふっと笑って答えた。
「はい、お父様」
 窓の外には、ちらちらと雪が舞い始めていた。今日もまた寒い一日になるのだろう。
 それでも、佐祐理の心は暖かかった。
 長い冬もいつしか終わり、やがて春の訪れる日が来るのだと、佐祐理にはもう分かっていたからだった。

Fin.

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