(4/6)

 それは常よりもずいぶんと早い時間だった。
 左に抜き身の剣を逆手で持ち、空いている方の手で舞は昇降口の扉を開く。音も立てずに開いたドアをくぐり、舞はそのまま暗い校舎の中へと入り込んだ。
 静かだった。生徒達の立てる喧騒も今はなく、ただ非常口を示す明かりが、ぼんやりと廊下を照らしているのみだ。
 しかし、舞はそこに人ならざる者達の気配を感じ取っていた。場所の当たりをつけ、そちらに向かって足を踏み出す。
 考えてみれば、それは奇妙な話だった。
 教師用の昇降口が、いつも錠を掛け忘れているとは限らない。また、たびたび割られる窓ガラスのために、夜の校舎へ見回りが行われないはずはない。そして――
 舞は二階の廊下へと辿り着いた。わだかまる闇の向こう、そこに『奴ら』がいる。目では捉えることのできない魔物、舞がずっと対峙してきた相手が。
 ――そして、刃の付いた真剣など、学校内にそうそう隠せるものではない。
 校舎の表玄関に三人分の鞄を置いたとき、舞の両手はからっぽだった。その後、舞が扉を開いたときには、既に馴染みの剣を手にしていた。それなのに、剣をいつ、どこで手に取ったのか、舞は思い出せない。
 一度気付いてしまえば、そこにはたくさんの矛盾があった。それは舞自身が作り上げ、そして目を背けてきた虚構のほころびだ。あるはずのないものを存在させんがための……。
 魔物の気配は動かない。いつものようにこちらを襲ってくる様子もない。それでも、舞の取る行動は同じだった――ほかに対処する術を彼女は知らなかった。
 剣を持ち替え、両手で柄を握り正面に構える。闇が色濃く淀んだ廊下で、微かな明かりを受けて切っ先が鈍い光を放つ。
 そして舞は剣を振り上げると、リノリウムの床を蹴った。
「……ッ!」
 瞬く間に距離を縮め、舞は見えない敵に迫る。躱されたとき、受け止められたとき、反撃されたとき――それらの状況に応じた様々な動作のパターンが瞬時に頭の中で組み上がり、舞は相手の出方を観察しつつも接近を続けた。
 それでも魔物は動かない。
 やがて、敵が間合いの間近へと迫った。舞は気配に注意を払いながら、振りかぶった剣を相手に向かって繰り出す。
『駄目だよっ!』
 その瞬間、制止の叫びが廊下に響き渡った。突如として、小柄な少女が舞と魔物の間に現れたのだ。
 舞は急制動をかけつつ、少女へと迫る切っ先のベクトルを強引に横へ逸らそうとする。刃は少女の右肩をかすめたものの、辛うじてその身を切り刻むことは免れた。
 しかし無茶な方向転換のせいで柄が手からすっぽ抜け、ガランと出来損ないの鐘のような音を立てて剣が床に落ちた。そのまま勢いで、廊下の奥へと滑っていってしまう――不可視の魔物が集う、その向こう側へと。
 虚空から姿を現した少女は、あゆだった。コートとセーターの肩の部分が裂けてはいるものの、怪我はない。あゆは両手を広げ、背後の魔物を庇うように立った。
「……そこをどいて」
 迫る舞に、あゆは言葉を繰り返す。
「駄目だよ。この子達を苛めちゃ……」
 背後の魔物は動かず、あゆを攻撃する素振りも見られなかった。
「それは、私が生み出した魔物。ついてしまった嘘を本当にするために、私が作り出したもの。だから、私が始末を付ける」
「でも、この子達は悲しんでるよ。お姉さんの元に帰りたいって言ってる」
「私には、聞こえない」
 あゆは首を横に振った。
「……嘘だよ。お姉さんにはちゃんと分かってるはずだもん」
 あゆの言う通り、舞は魔物がもはや敵意を持たないことを理解していた。それどころか、既に魔物ですらないということも。
「その力は、私には必要ないものだから。それがあったせいで私は恐れらた。ほかの人と違うから嫌われた。だから、そんな力はいらない」
「祐一君や、お姉さんの友達もそうなのかな?」
 あゆの問いかけに、舞は俯いた。
「……佐祐理はきっと、私が力を持っていても受け入れてくれる。私にとって佐祐理は一番の親友で、たぶん佐祐理にとっても同じだと思う」
「そうなんだ」
 とつとつと語られた舞の言葉に、あゆは我が事のように顔をほころばせた。
「……祐一のことは、分からない。以前、力を見せた私を祐一は拒絶しなかった。だけど結局、祐一は私の前からいなくなってしまったから」
 舞はそう言って口ごもる。
「祐一君ってさ、なんか変な男の子だよね? いじわるだし」
 あゆが唐突に話題を変えた。戸惑いつつも、舞は頷く。
「祐一は変で意地悪」
「ボクなんか、会うたびにからかわれるんだよ。口癖とか、大好きなたい焼きのこととか。それに、すっごく自分勝手だよね。えっと、『どくぜんてき』って言うのかな?」
 舞はまた頷く。
 あゆはにっこりと笑ってミトンを胸元で揃え、舞に向かって言った。
「だからね、祐一君はほかの人と違うからとか、他人がどう言っているからとか、そんなことは全然気にしないんだよ。お姉さんもそう思うでしょ?」
 舞は虚を衝かれて目を見開き、立ち尽くした。
 それは彼が転校してきてからの一月たらずの間に、いや、昔日の短い逢瀬ですら、舞には分かっていたはずのことだった。あゆの言葉で、舞は己が作った檻で自分を縛っていたのだということに、ようやく気付いた。
「……そう、祐一はそういう人」
 ため息とともに呟く舞の肩から、力がすっと抜ける。
 魔物とか、力とか、そんなもので祐一を繋ぎ止めることはできない――繋ぎ止めてはいけないのだ。それを悟ったとき、舞自身を捕らえていた呪縛も同時に消えた。
「だから、お姉さんには祐一君と親友の人、受け入れてくれる人が二人いるんだよ。それにボクだってお姉さんのこと、嫌ったりしないから。
 ……ボクこんなだから、あんまり足しにはならないかもしれないけどね」
 自分の体を見下ろして言ったあゆに、舞は首を左右に振った。
「そんなことない。ありがとう」
 相変わらず表情にさほど変化はないものの、その感謝が心からのものであることがあゆには伝わったようだった。
 あゆは微笑み、脇にどいた。そして、彼女が庇っていたものが、舞の視界に入る。
 それはもはや見えない魔物などではなく、幼い少女の姿をしていた。小さい頃の舞の似姿だ。少女達は不安げな様子で舞の表情をうかがっている。
「戻ってきて……私の中へ」
 舞が告げると、少女達はぱっと花が咲いたように明るい笑みを浮かべた。それもまた、かつて舞が持っていながら、孤独の中でいつしか失ってしまったものの一つだった。
 少女は舞の元へ駆け寄り、次々とその胸の中へ飛び込む。そして雪が解けるかのように、すうっと消えてしまった。
 忌み嫌ったはずの力。それを取り戻しても、舞の中には以前ほどの不安はなかった。これから先、時には他者から恐れられることがあるかもしれない。それでも、舞はもう独りではないのだから。
 魔物として刃を交えてきた相手を全て取り込み、長く孤独な舞の戦いは終わった。
 廊下には舞とあゆの二人だけが立っている。いつの間にか、廊下に転がっているはずの剣も姿を消していた。舞がそれを必要としなくなったからだ。
「あなたは、どうするの?」
 あゆに向き直り、舞は尋ねる。
「ボクはもう、どこにも居場所がなくなっちゃったから……」
 寂しそうに微笑むあゆ。
「違う。あなたには還るべきところがある」
 今の舞には、あゆの状況が見えていた。彼女が病室で長い長い眠りに就いていることを、取り戻した力で知った。
「でも……」
「今、あなたはそこに戻れるだけの力を持ってるはず」
 重ねて言う舞に、あゆは俯いて呟く。
「ボクは誰にも必要とされていないんだよ。ボクが戻っても、誰も待っててくれない。だから――」
 言いかけたあゆの言葉を舞が遮った。
「だったら私が会いに行く」
 えっ、と驚いた表情であゆは舞を見返す。
「私があなたの所へ会いに行く、祐一と佐祐理を一緒に連れて。だから、あなたは必要」
 それはいかにも彼女らしい、不器用な励まし方だった。しかし、その真摯な思いはまっすぐにあゆの心へと届いた。
「……ほんとに、来てくれるの?」
「必ず。祐一もあなたが戻ったことをきっと喜ぶ」
「ありがとう、お姉さん」
 あゆは涙ぐみ、笑顔を浮かべた。
 孤独だった少女達は、互いの手を取り合う。一人は自らが作った檻に閉じ込められ、今一人は決して醒めない夢に囚われ、長く辛い日々を過ごしてきた。彼女らを救ったのは待ち焦がれていた相手ではなかったけれど、もう寂しくはなかった。
「私は川澄舞。舞でいい」
「舞さん……」
 確かめるようにあゆは繰り返すと、続いて自分も名乗った。
「ボクは月宮あゆだよ。ボクもあゆって呼んでほしいな」
「分かった」
 舞も頷く。
「じゃあ、ボクそろそろ行くね」
 あゆがそう告げると、彼女の姿が薄らぎ始めた。
「あゆ、きっと会いに行くから」
「うん。そのときまで、ばいばい。舞さん」
「……ばいばい」
 向こうが透けて見えるほどに薄らいだあゆは、にっこりと笑った。それは暗く冷たい夜の校舎に、うららかな春の陽射しを感じさせるような、そんな暖かい笑顔だった。
 そして、天使の羽根を持つ少女は姿を消した。
 静寂が戻った廊下に、舞は一人佇む。そこにはもはや魔物も、剣も存在しない。自分を閉じ込めた檻は、同時に自身の心を守るものでもあったのだと、舞は漠然と察していた。そして、その役割を終えたのだということも。
 舞は最後に、静まり返る廊下へと一瞥を走らせた。それは舞なりの、決別の挨拶だった――二度と夜ここを訪れることはないのだから。非常灯の明かりが、ジジ、と音を立て明滅する。まるで舞との別れを惜しむかのように。
 そして少女は踵を返した。その手には何も持たず、明日を目指して。

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