(3/6)

 祐一は森の中を進んでいく。
 周囲は既に薄暗くなり、すっかり闇に閉ざされてしまうのも先のことではなかった。雪国の冬、さほど深くないとはいえ、森で方向を見失えばただではすまない。
 不安を感じつつも、佐祐理は祐一の後を追い続けた。
「祐一さん、待ってください!」
 聞こえているのかいないのか、祐一は反応を見せない。
 森の中の道とも言えぬ道のせいで、祐一の進むペースはかなり遅くなっている。街中からずっと走り続けてきた佐祐理は、そのおかげで息を整えることができた。
 とは言え、生い茂る木々の中、気を抜けば祐一を容易に見失うことになるだろう。また、注意して歩かねば木の根に足を取られかねない。
 雪の積もった針葉樹は影を落とし、残り少ない陽光を遮っていた。風のない木立の中、ただ二人の雪を踏みしめる音だけが聞こえてくる。
 ふっと、前を行く祐一の姿が佐祐理の視界から消えた。
「……!」
 慌てて足を速めた佐祐理の前に、突然開けた場所が現れた。
 森の中で、ぽっかりと丸い広場のように広がった空間、その中央に大きな切り株が見えた。祐一が切り株の手前で膝を突いている。そのせいで祐一を見失ったらしい。
 ほっとして、佐祐理はその背後に歩み寄った。
「祐一さん……?」
 それ以上、かける言葉は見つからなかった。佐祐理は祐一の事情を何も知らず、その行動の意味も分からない。
 と、祐一が俯いたままの姿勢で言った。
「……佐祐理さんは、ここに大きな木があったのを知ってるか?」
 一瞬思案顔になり、佐祐理は思い出す。
「ふぇ……確か、佐祐理が子供のころはありましたね。街からも見える大きな木でした」
「それじゃ、その木から子供が落ちたことは?」
「憶えてます。そのせいで危ないからって木が切られたんでしたね」
 当時はかなり話題になったため、佐祐理の記憶にも残っていた。一弥が亡くなるより少し前で、佐祐理も一つ年下の少女が遭った事故に心を痛めたものだった。
 そのままの姿勢で動かない祐一に、佐祐理は近づいた。落ち行く太陽からの光が、空ろな目をした少年の横顔を照らしていた。
 祐一が、切り株の方を向いたまま身じろぎもせず呟く。
「俺は……その場にいたんだ。あいつが木から落ちた、その場所に」
「えっ……?」
 佐祐理の足が止まった。
「危ないからよせって言ってたのに、聞かなくてさ。だけど、無理矢理にでも止めるべきだったんだ。
 あいつが落ちたとき、俺はなんにもしてやることができなかった。できなかったんだよっ! どんな願いだって叶えてやるって、約束したのに……」
 祐一の表情が歪んだ。地に突いた両手が、積もっていた雪を握り締める。
「あんまり辛くて、苦しくって……俺はこの街で起こったことを忘れた。そうやってのうのうと、平穏な日々を送ってきたんだ。そんなのおかしいだろ?
 七年ぶりにこの街へ戻ってきて、あいつが――あゆが目の前に姿を現しても、それでも昔起きたことを思い出せない。俺はそんな薄情な奴なんだ!」
 佐祐理は息を飲み込んだ。先ほど目の前で消えてしまった少女に対して、祐一が『あゆ』と呼びかけていたことを、佐祐理は憶えていた。
「それは……」
「あゆはきっと、俺のことを七年前からずっと待っていたんだ。それなのに俺は、この街が自分の悲しみを呼び起こすことを無意識に恐れて、ずっと近づかなかった。
 ひどいよな。最低だ、俺って奴は……」
 握った右拳の隙間から、血の雫が流れ落ちた。それは夕日よりもさらに鮮やかに、雪を赤く彩っていく。
 佐祐理はしゃがみ込み、その手を開かせようとした。
「やめてください、祐一さん! 祐一さんは何も悪くなんかありません。ただ……きゃっ!」
 祐一は佐祐理の手を払いのけ、叫んだ。
「佐祐理さんに、何が分かるって言うんだ! 何も知らない佐祐理さんが、俺をどう庇うことができるんだ? 上辺だけの同情なんてやめてくれ!!」
 後ろにへたり込んだまま、佐祐理の肩がびくっと震えた。
「……そうですね。ちょっと無神経でした。佐祐理は頭の悪い女の子ですね」
 唇をわななかせながら、佐祐理はそう言って微笑む。そして祐一は、己の言い放った言葉の鋭さにようやく気付いたようだった。
「あ、佐祐理さ……ごめ……」
「でも、佐祐理にも分かることがありますよ――自分を責め続ける、その闇の深さが」
 笑顔のまま、佐祐理の両目から涙の雫がぽろぽろとこぼれ落ちる。
 祐一は思わず佐祐理を抱きしめた。手のひらの血が、佐祐理を汚してしまわないよう注意しながら。
「ごめん、佐祐理さん。無神経なのは俺の方だ。
 舞に、『佐祐理を助けてあげて』って言われたばかりなのにな。自分のことでいっぱいで、他人を思いやる余裕がなかったみたいだ」
 祐一の腕の中で、佐祐理は首を左右に振った。
「いいえ……っく……いいんです。本当は、祐一さんにそんなことを言える資格……佐祐理にはありません。
 同じでしたから……かつての佐祐理も。たぶん、今も……」
「そっか。じゃあ、俺達は似た者同士ってことかもな」
「……かも、しれませんね」
 佐祐理は顔を上げ、笑みを浮かべた。頬に涙は残るものの、それは先程の無理に作った笑顔とは異なるものだった。
 祐一はそっと佐祐理から体を離し、立ち上がる。
「佐祐理さん、立てる?」
「ありがとうございます」
 差し出された左手に掴まり、佐祐理も立ち上がった。そしてポケットから白いレースのハンカチを取り出したが、涙を拭おうとはせずに言った。
「祐一さん、そっちの手を見せてください」
「いや、いいって」
「駄目です。さあ……」
 佐祐理は半ば強引に祐一の右腕を取り、手を開かせた。手のひらに食い込んだ爪痕を痛ましげに見ながら、佐祐理はハンカチをくるりとその手に巻きつけ、結ぶ。
「後でちゃんと消毒してくださいね」
「高そうなハンカチなのに、ごめん」
 出血はさほどではないものの、白い布地に赤黒く血が滲んでいた。
「ハンカチは使うためにあるんですから、大事に取っておく方がおかしいです」
 木々の合間から差す夕日の最後のきらめきが世界を染める中、佐祐理は指で涙を拭い、微笑んだ。祐一は眩しげに目を細める。
「……ありがとう、佐祐理さん。少し気が楽になったよ。佐祐理さんが止めてくれなかったら、自暴自棄になってたところだ。そんなこと、無意味なのにな」
 祐一の言葉を聞いて、佐祐理の表情に少しだけ翳が差す。
「佐祐理は……本当に祐一さんのお力になれたんでしょうか? 佐祐理のしたことは、ただ――」
 口ごもり、佐祐理は目を伏せた。途切れた言葉を察して、祐一が続ける。
「――ただ、傷を舐め合っただけ、ってこと?」
 肩を強ばらせ、佐祐理は俯いた。
 祐一は頭の後ろで指を組み、空を見上げる。濃紺へと変わりつつある空に、ひとつ、またひとつと星が瞬き始めていた。
「いいんじゃないかな、それでも」
 祐一は呟いた。その優しい口調に、佐祐理が顔を上げる。
「人間なんてそんなに強くないから、時には誰かに支えてもらいたくなることもあるさ。それは別に悪いことじゃない」
「でも……」
「佐祐理さんは自分を卑下し過ぎていると思う。まあ、さっきまで落ち込んでた俺が言うのもなんだけど。
 少なくとも、佐祐理さんがここまで来てくれたことに俺は感謝してるよ。ただそばにいてくれる、それだけでも救われるときだってあるさ」
「そう……なんでしょうか?」
 得心のいかない表情で、佐祐理は小さく溜め息をつく。
 次第に大気が冷え込んできていた。太陽はもう見えなくなり、明るい西の空にその痕跡を残すのみだった。
「結局、佐祐理は何も変わることができないのかもしれません。相変わらず、自分が何をするべきなのか自信を持てないんです。佐祐理の時間はまだ、あの時に止まったままなのかも……」
 祐一は佐祐理に視線を戻して言った。
「世界中の誰だろうと、自分の行動が本当に正しいのか知っている奴はいないさ。どれだけ自信があるように見えたとしても。現に俺だって、さっき恥ずかしいところを見せたばっかりだ。
 ガキの分際で偉そうに言える筋合いじゃないかもしれないけど、たぶん誰もが先の見えないまま、手探りで歩いているんだと思う」
 ゆっくりと佐祐理が頷く。
「佐祐理は、臆病になっているのかもしれません。自分の無分別な行動がまた誰かを傷つけてしまうことにならないか、それが恐いんです」
「そうだな……。俺は結局、あゆに寂しい思いをさせちまった。つくづく自分が嫌になるよ。
 でも、そこで自分に絶望しても、何も始まらない。そんなことをすれば、周りの人を悲しませるだけだ。それじゃ、自分の間違いを償うことにはならない。
 体のいいごまかしかもしれないけど、佐祐理さんのおかげで俺はそう思うことができた。だから、そんなに自分を見下す必要はないさ」
 祐一の言葉を聞いて、佐祐理は少し笑みを取り戻した。
「佐祐理は祐一さんを元気づけるつもりだったのに、なんだか逆になっちゃってますね」
「まあ、佐祐理さんを気遣えるぐらいには気が楽になったってことかな」
 祐一はまた顔を上向け、そして目を閉じる。
「――ごめんな、あゆ。ずっと忘れてて。本当にごめん」
 祐一は囁くようにそう呟いた。
 紡がれた謝罪の言葉は、星の瞬き始めた冬の空へと消えていった。

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