(5/6)

 佐祐理と祐一は、肩を並べて夜道を歩いていた。
「……佐祐理さんはお父さんと上手くいってないわけだ」
 祐一は歩きながら頷く。
 東の空から、満月というには少し早い月の明かりが彼等を照らしていた。森の中でとっぷりと日が暮れたときには難儀したものの、その光の導きで佐祐理達は森を抜けることができたのだった。
「はい。先日、生徒会のことでごたごたがあったとき、お父様は手助けしてくれるとおっしゃったんですけど、とっさに佐祐理は断ってしまいました。あまりフェアなことではないと感じてしまって……」
 佐祐理は舞にも打ち明けたことのない内情を、祐一に向かって吐露する。
 二人は一旦、舞と別れた場所に向かったものの、その場に彼女の姿はなかった。そこで祐一の「なんとなく学校にいるような気がする」という言葉に従って、毎日を過ごしている学舎へと歩を進めているところだった。
「なるほど、ね」
 祐一は言葉を切り、佐祐理に視線を向けた。
「佐祐理さんは、お父さんのことを恨んでる?」
「……!」
 絶句し、立ち止まる佐祐理。
「そんなことっ……」
 言いかけて、佐祐理は言葉を飲み込んだ。そしてため息とともに続ける。
「いえ、祐一さんの言う通りなのかもしれません。佐祐理は自分の犯した過ちを、お父様に責任転嫁しているのかも……」
 その沈んだ表情に、逆に祐一が慌てた。
「別に佐祐理さんを責めてるとかじゃないんだ。俺が同じ立場だったらそうなのかなって考えただけで……ごめん」
「祐一さんが謝ることはありませんよ。佐祐理は自分の気持ちを理解していなかった――と言うより、目を背けていたのかもしれません。それを気付かせてくれたんですから」
 祐一は頭を掻いた。
「いや、そんな立派なもんじゃないけど。
 ……それで、そうしたいきさつがあっても、佐祐理さんはお父さんのことが好きで、傷付けたくないんだよな? 佐祐理さんがそのことを気に病んでいるってことは」
「それは……はい」
 頷く佐祐理。
 祐一が促し、二人はまた歩き出した。もう学校は間近だった。
「俺が思うに、佐祐理さんとお父さんは似てるんじゃないかな」
「ふぇ……。佐祐理が、ですか?」
 佐祐理は瞬きする。
「うん。上手く言えないけどさ、きっとお父さんも佐祐理さんのことが好きで、傷つけたくないと考えてる。だけど、どう接したらいいのか分からない。そんな風なんじゃないかってね」
 祐一の言葉を、佐祐理は心の奥で受け止めた。自分がそれを素直に信じられるほどに父親を愛している、と今さらながらに気付く。悲しい出来事のせいでギクシャクしているものの、親子の愛情は変わらずそこにあるのだと。
 そして同時に、祐一が自分という人間を見ていてくれたことを、佐祐理は暖かく感じた。笑顔という仮面の下に隠された素顔を見抜かれたことが、しかし決して不快ではなかった。
「俺、また勝手なことを言ってるよな、人の家の事情を訳知り顔に。ごめん、佐祐理さん。
 ……なんか今日は謝ってばっかりだ。格好悪いな」
 祐一は肩を竦めて苦笑する。
「いいえ」
 佐祐理は首を振り、柔らかく微笑んだ。
「祐一さんは格好悪くなんかありませんよ」
 続く言葉は、胸の内に飲み込む。祐一は、「だといいんだけどさ」と照れながら笑った。
 少年は自然体で、それゆえに自分の言動の影響力に気付いていない――そして、彼女の言葉に込められた想いにも。
 二人が校門の前まで辿り着いたとき、中から影がひとつ現れ、彼等の前に立った。
「ああ、舞。やっぱりここだったか」
 祐一は驚いた様子もなく、すぐに舞の姿を認めた。舞はそんな祐一をじっと見つめて問いかける。
「……もう、大丈夫なの?」
「ん……心配かけちまったな、悪い。とりあえず今は落ち着いたよ」
「そう」
 舞は素っ気なく見える素振りで頷くと、二人に右腕を差し出す。その手は佐祐理と祐一の鞄を掴んでいた。
「遅くなっちゃってごめんね、舞」
 佐祐理が謝って鞄を受け取ると、舞は頭を左右に振った。
「祐一の鞄は軽かったから」
 なんとなしに非難の響きを感じ取ったのか、祐一が顔をしかめる。
「いいんだよ。教科書は机の中に入れておけば困らないんだし」
「それだと、家で勉強ができない」
「お前、あんな生活続けてて、家で勉強する余裕があるのか……っと」
 そこで祐一はあることに気付き、小声で舞に耳打ちする。
「そう言えば、今夜はどうするんだ?」
 しかし、舞は声をひそめることもなく、祐一に答えた。
「もう魔物は現れないから。夜の学校に来るのも、今日で最後」
「……全部、終わったのか?」
 舞はこくりと頷く。
「そうか」
 祐一は拍子抜けしたように呟いた。
 佐祐理は舞が夜の校舎で何をしていたのかを知らなかったが、それが舞を苦しめていることは感じ取っていた。その何かが終わったという今、舞がいつもよりもすっきりとした表情であることにも気付く――親しいものでなければ分からないほど微かなものではあったが。
「それと祐一、学校の帰りに言ってたことだけど……」
 唐突に話題を変える舞に、祐一は戸惑う。
「えっ、何の話だ?」
「私にも新しく友達ができたから。もう交友範囲が狭いとは言わせない」
 何やら誇らしげな様子に、佐祐理と祐一は目を丸くする。
「はぇ~っ。そうだったんだ、舞」
「ちょっと待て! お前それ、相手は本当に人間なんだろうな?」
 ある意味失礼な祐一の質問に、舞は一瞬首をかしげ、頷いた。
「たぶん」
「た、たぶんって……」
 祐一が思わず頭を抱える。
「でも、良かったね舞。友達が増えるのは良いことだと思うよ」
 微笑んだ佐祐理の顔を、舞はまっすぐに見て言った。
「……それでも、私の一番の親友は佐祐理だから」
「う、うん。ありがとう」
 佐祐理は内心、動揺を感じつつも答える。自分の表情に、寂しさが現れていなかったか、と。しかし、舞はそうした心の機微を解するタイプではない。純粋に、自分がそう思ったから口にしただけなのだろう。
 同時に、自分の感情にも少しショックを受けていた。そこに、自分だけが舞を理解してあげられるはず、という独占欲に近いものが含まれると気付いたためだった。けれども祐一が現れ、そしてまた新たな友達ができ、佐祐理は舞にとって唯一の理解者ではなくなってしまった。
 舞を幸せにしてあげたいという気持ちに偽りはなかったが、いつしかそれは依存になってしまったのではないか――佐祐理は初めて、自分が閉じこもっている殻の存在を感じ取った。
 佐祐理の気も知らぬげに、舞は続ける。
「それで明日の放課後、その子に会いに行くから。佐祐理と祐一にも一緒に来てほしい」
「あ……佐祐理は構わないけど、祐一さんは……」
 そう言って、佐祐理は祐一の方を気遣うようにうかがった。森から学校へと戻る道すがら、祐一は明日、あゆの消息を調べてみるつもりだと言っていたためだ。
「明日はちょっと用があるんだ。また今度じゃ駄目か?」
「……駄目。大事なことだから」
 強硬に言い張る舞に、祐一は苦い表情で折れた。
「ぐ……分かったよ。ただし、明日だけだぞ? 明後日は付き合わないからな」
「それでいい」
 祐一は溜め息をついた。白い息が常夜灯の光の中で霧状に揺らめき、すぐに闇の中へと拡散していく。
「しかし、お前って本当に身勝手な奴だな」
「……祐一ほどじゃない」
 祐一が「俺って付き合い良いよなぁ……」などと一人で呟いたとき、舞は小声で告げる。
「大丈夫、祐一も無関係じゃないから」
「……今、なんか言ったか?」
「なんでもない。ただの独り言」
「? まあいいや」
 舞の言葉が聞こえていた佐祐理は、明日会いに行くという『友達』が誰なのかを何となく察した。視線だけで問いかけると、舞は佐祐理に向かってコクと小さく頷いた。
 ――そして、引き結ばれた唇の両端を、ほんの微かに持ち上げる。
「あっ。舞、お前今笑ったのか!」
 目ざとくそれを見つけて驚いた祐一に、舞はすぐ表情を元に戻す。
「……! 笑ってない」
「いいや、俺は見た。見間違いじゃない」
「そんなことない。祐一の気のせい」
「あ、あははーっ」
「別に怒ってるわけじゃないぞ。いいじゃないか、舞の笑顔……って、痛っ!」
 舞のチョップが祐一の眉間に炸裂する。
「駄目ですよ祐一さん。舞は照れてるんですから……きゃっ」
 続いて、佐祐理のこめかみにも。
 そんなじゃれ合いの中で、佐祐理は思った。たとえそこに依存があったのだとしても、舞の進歩を喜ばしく思う気持ちにも嘘はないのだと。佐祐理にとっても舞が一番の親友であること、それは疑う余地のない真実なのだから。
(ゆっくりでいいから、一緒に幸せに近づいていこうね、舞?)
 佐祐理は声に出さず、胸の中で呟いた。
 丸い月が夜の空にたなびく雲を浮かび上がらせ、楽しげな三人に蒼い光を降り注いでいた――彼等を祝福するかのように。

前へ   1  2  3  4  5  6   次へ