落日の挽歌
2006-01-29 by Manuke

 彼がその女に初めて出会ったのは、とある日の午後のことだった。
 急に降り出した激しい雨のせいで、彼は仲間とはぐれ、一人森の中を小走りしていた。頭上には雷鳴が轟き、時折走る稲光が彼の足を竦ませる。けれども、彼はこの先に岩棚があることを知っていた。その下でなら、取りあえず雨も雷もやり過ごせるはずだと。
 しばらく走った後に辿り着いた岩棚には、しかし若い女の先客がいた。
 女は濡れてしまった金色の髪を白い頬に張り付かせ、心細い表情で空を見上げている。その横顔に彼は違和感を覚え、そして理解した。女が彼の同族ではないことに。
 それは森の奥に住む別種の人々、妖精族の女だった。
 彼が岩棚へと近づくと、その女も彼の存在に程なく気付いた。一瞬、驚きに息を飲み――そして嫌悪の表情を浮かべる。
 それも当然だった。彼の部族と妖精族は外見にかなりの違いがあるからだ。妖精族は総じて彼の仲間よりもほっそりとしていて背が高く、そして賢い。互いに言葉も通じない二種族は、接触を避け、交流しないことで無用な諍いを避けているのである。
 しかしこの場合、そういう訳にもいかなかった。
 彼が岩棚の下に飛び込むと、女は彼がいるのとは逆の方へ後ずさった。とは言っても、雨避けの場はそれほど広くはなかった。手を伸ばせば触れることのできる距離でしかない。
 また一つ、雷光がよじれた曲線を空に描き出し、直後に恐ろしげな音が彼の耳朶を打つ。隣で女がビクリと肩を震わせるのが見えた。
 その女は美しかった。顔立ちは彼の目には幼く映るものの、容姿から判断すると十分に成熟しているのだろう――彼には妖精族の齢を推し量る術はなかったが。衣服は彼の纏うものよりも遙かに洗練されていて、首には何やら見慣れぬ物がぶら下がっている。妖精族が使うという魔法に関わるものなのかもしれない。
 しかし、何より彼を惹き付けたのは、女の浮かべている表情だった。そこには彼に対しての嫌悪と同居して、不安の色が覗いている。それがどうしてか、彼の心の奥底を揺さぶるのだった。
 不意に寒気に襲われ、彼は自分の着ている物がすっかり濡れているのを思い出した。水気を絞るために衣を脱いだとき、女の顔に怯えが走った。そこで遅まきながら、彼は女が彼自身を恐れているのだということに気付いたのである。
 妖精族の女にとって、彼は醜いケダモノとしか見えていないのだろう。それが悲しかった。彼は女に危害を加えるつもりなどないというのに。
 おざなりに水を絞って、彼は再び濡れたままの衣を被った。そして互いに言葉を交わすこともなく――どのみち言葉は通じないのだが――ただ雨が上がるのを待つ。
 やがて雷雲は遠のき、空には明るさが戻ってきた。小止みになった雨の中へ、女は体が濡れることも厭わず飛び出していった。彼のそばにいるのが忌まわしいとでも言いたげに。
 木立の奥へと消えていく細身の姿を目で追いつつ、思わず彼の喉から低い唸り声が漏れる。
 そして女が見えなくなった後、彼もまた自分の集落へと戻るために岩棚の下から足を踏み出したのだった。

 仲間達は、狩りの途中ではぐれた彼が無事戻ったのを喜んだ。そして、仕留めた獲物を囲んで夕餉が始まった。
 彼は獲物であるナガツノの体を手製のナイフで切り分け、切れ端を部族の子供に分け与える。子供達は喜んで彼の手から肉を受け取り、口に運んだ。
 彼自身も時折、無意識に自分の食欲を満たしていたが、その心を占めていたのは昼間出会った異種族の女のことだった。
 彼は部族の中で最も賢い者であり、様々な技能に長けていた。ナイフ作りでも、部族で右に出る者などいない。それでも、その彼ですら妖精族には遠く及ばないのだ。
 どれだけ才覚を見せようとも、妖精族にとっては自分もまた野蛮な連中の一人でしかない。そのことに彼は苛立っていたのである――その感情が劣等感であることに気付かず。
 ふと我に返ると、彼の傍らに妻が、手に乾いた着衣を抱えて立っていた。長年連れ添った妻だが、もう若くはなく、あの女のように美しくもない。
 彼は妻に声を掛けることなく、服だけを受け取った。虫の居所が悪いことを察したのか、彼の妻は顔を伏せて去っていった。そして彼は、自らの妻にほとんど目をくれることすらしなかったのである。

 それからしばらく後の日中――。
 彼と仲間達は、川辺で水を飲むオオツノを捕らえるべく、音を立てぬようその背後から忍び寄っていた。彼の手には、穂先をアスファルトで固定した槍。長の合図を契機に、全員でオオツノに襲いかかって倒すという手はずである。
 だが、そこで思いもよらない事態が起こった。それまで何も知らぬ気にせせらぎの水を飲んでいたオオツノが突如跳ね起き、彼と仲間の潜む草むらへ向かって走り始めたのだ。
 不意を突かれた彼等だったが、長は雄叫びを上げてオオツノへ飛びかかり、その後に彼と仲間も続く。しかし、それは失策だった。
 雄のオオツノは、前に立ちはだかった長に向かって突進した。そして、長はその角に弾き飛ばされたのである。
 一瞬動きの止まったオオツノの首筋へ、彼は渾身の力で槍を繰り出した。オオツノは悲鳴を上げ、頭を左右に振る。横殴りに叩きつけられた角に一瞬息が止まったが、仲間達は彼を援護するべく次々と槍をその体に突き立てた。
 オオツノが竿立ちになる。その危険な蹴爪をやり過ごし、彼等は懸命にその獣へと襲いかかった。程なくその巨体がどうと横倒しになり、彼は渾身の一撃でオオツノの息の根を止めた。
 獣の体から流れ出した血が、大地に吸い込まれていく。しかし、彼の仲間も無傷ではなかった。長は口から血を吐き、ヒューヒューと苦しそうに息をしている。他にも怪我を負った者がいるようだった。
 そして次の瞬間、どうしてオオツノが突然逃げ出したのか、その訳を彼は知った。川下にある木立の陰から、妖精族の集団が姿を現したのだ。
 妖精族は一様に怒りの表情を浮かべていた。彼等に獲物を横取りされたと感じているのだろう。
 これまでは、妖精族の狩り場は森の奥にあり、彼等の部族とかち合うことはなかったはずだった。しかし、彼にはそうしたことを思い浮かべる余裕はなかった。
 集団の中に、先日出会った若い女がいたのである。
 女もまた憎々しげな表情でこちらを睨んでいた。そして彼は気付いてしまった――女が自分を見分けていないのだということに。妖精族の女にとって、自分は見分ける価値もない野蛮人に過ぎないのだということに。
 彼の仲間が、妖精族に向かって威嚇の仕草を取った。妖精族の若者がそれに応じようとしたが、リーダーらしき人物がそれを制する。
 妖精族はリーダーに促され、未練を残しながらも木立の奥へと消えていった。
 仲間達は安堵し、勝利の凱歌を歌った。最も怪我の重い長を彼と仲間の一人が支え、残りの者は獲物のオオツノを担いで集落へと戻ることにする。
 けれども、その道中も彼の気が晴れることはなかった。

 長は手当の甲斐なく、日の高いうちに死んだ。
 墓穴が掘られ、そこへ手足を折り曲げた形で長だったものが納められる。その体には、薬となる草や花が傷口にあてがわれたままだった。表情は穏やかで、安らかな眠りに就いているようにも見えた。
 長の妻や子供達が挽歌を歌う。高く、低く、その声は洞窟内にこだました。
 その光景を見ながら、彼の心は別の憂鬱に囚われていた。
 今まで部族を率いてきた長が亡くなったことにより、次の実力者である彼が次代の長を務めることになるのだろう。しかし、それは彼の望まぬことだった。彼にとってその役目は、面倒な厄介事としか感じられなかったのである。
 土が埋め戻され、長の体は地中へと隠されていく。そうして、埋葬は終わった。
 三々五々、人々は墓場から立ち去っていった。彼もまた洞窟から出て、それから入り口を振り返った。長だった男が子供時代の彼を可愛がってくれたこと、その男を尊敬していたことを思い出したのだ。
 か細く長い哀惜の唸り声を上げ、そして彼はその場所から歩み去った。

 ちろちろと揺れる火のそばで、彼はオオツノの皮の端を口に咥え、なめしていた。今日は色々なことが起こり、彼は作業をしながら思いに耽っていたのである。
 先の長が狩りの最中に命を落としたことで、彼の立場は影響を受けた。明日からは彼が長として群れを率い、狩りの先頭に立って獲物を仕留めなければならないのだ。軽率な行動は彼自身や仲間に危機を招き、慎重過ぎれば獲物を取り逃がして部族が飢えることになる。
 そしてもう一つ、妖精族の女のことが彼の心を乱していた。
 それまでの彼にとって、妖精族は単に異種族の人間でしかなく、取り立てて気に掛けるような相手ではなかったはずだ。それがどうしてあの女にだけ惹かれるのか、自分でも良く分からなかった。
 昼間に女が彼に向けた、侮蔑と怒りの眼差し――それが未だ目に焼き付いて離れない。
 彼が思い悩んでいると、彼の妻が傍らに近づいてきて、焼けた肉を差し出した。彼は作業を中断し、それを黙って受け取った。
 熱い肉にかぶりつき、骨から身をこそげ取る。長の命と引き替えに手にした獲物を、彼は存分に味わった。そして肉をしゃぶり尽くした後、ナイフで骨をこじり、骨髄を食べた。
 最後に残った骨を火にくべ、脂でべたついた指を着ていた毛皮で拭う。そしてふと、妻がまだ隣に座っていることに気付いた。
 彼の妻は悲しげな声を上げると、彼に身を寄せてきた。妻もまた長だった男を慕っていたのである。その死で人恋しくなったのだろう。だが、今の彼には鬱陶しいだけだった。
 彼は妻の手を邪険に振り払う。地面に倒れた妻は驚いたように目を見張ったが、怒りを見せることはなかった。顔を背け、声を殺して泣き始めた。
 それに罪悪感を覚えた彼は妻に視線を向け、そしてようやく理解した。自分が、妖精族の女の中にかつての妻の姿を見ていたのだということを。
 彼の妻は、小さい頃から体が弱かった。しばしば病に倒れ、大人に成長することも危ぶまれていたのだった。
 厄介者扱いされ、部族の他の者ともあまり馴染めない少女だったが、同じ親から生まれた彼にだけは懐き、後を付いて回った。そのせいで、いつしか彼は少女を守る役目を果たすようになり――やがて二人は夫婦となったのである。
 妻は妖精族の女のように美しくはなかったし、既に若くもなかった。けれどもあの女のほっそりした肢体と不安げな瞳が、彼に妻の若き日の姿を思い起こさせたのだ。
 彼は忍び泣く妻に近づき、その頭を抱き寄せた。淡い色の髪をそっと撫でながら、穏やかに慈しみの歌を歌い始める。
 彼はもう悩まなかった。悩む必要などなかった。愛する妻、愛する仲間達のためにすべきことは最初から決まっていたのだから。
 妻のすすり泣きははやがて収まったが、彼はそのまま妻を抱きかかえ、歌を続けた。
 空には満天の星が輝いていた。けれども、それは彼に必要のないものだ。彼には傍らでパチパチと音を立てて燃える炎と、そして妻の温もりがあれば充分だった。

 彼が初めて指揮した狩りは、上首尾に終わった。
 気性の荒い大型のシシや、すばしっこいホソアシを捕らえ、かつ大きな怪我を負う者が出なかったのである。仲間達は新たな長となった彼を認め、信頼してくれたようだった。
 意気揚々と彼等が集落へ引き返してきたそのとき、彼は異変に気付いた。
 集落へ通ずる獣道に、子供が倒れていたのである。
 うつ伏せに横たわる子供の背からは、木の棒が生えていた。驚いた仲間の一人がそれに駆け寄ろうとし――そして子供の傍らに倒れた。断末魔の苦悶の歌を喉から絞り出す女の脇腹には、やはり木の棒が突き立てられていたのである。
 彼等が呆然とそれを見つめていると、聞いたこともない奇妙な声があちこちから響き渡った。その直後、石の穂先をくくりつけられた槍が、宙から恐るべき速度で自分達に向けて降り注ぐのを彼は目にした。
 仲間の幾人かがその槍を受けて怪我を負い、そして絶命する。残った者達は恐慌に陥り、持っていた猟果を放り出して散り散りに逃げ出した。
 彼等には理解できなかったのだ。それが投擲された槍であることが。離れた場所から声を使って複雑な意思疎通を図るということが。それは彼等にとってはまさに魔法だった。
 仲間達が四方へ逃げていく中、嫌な予感を覚えた彼だけが、槍の飛んできた方向である集落の方へと走り出した。
 藪の脇を抜けて洞窟前の広場に到達した彼が見たのは、武器を携え自分に向かって身構える妖精族達と、地に転がって息絶えた同族達の姿だった。
 身重の者、病や怪我に伏せている者、年老いた者、そして子供達――狩りに参加しなかった人々がことごとく血を流し、死んでいたのである。
 そして彼は、最も見たくないものを火の燃えさしの傍らに見つけてしまった。手にしていた槍を放り出し、彼は妻の元へ駆け寄って体を抱き起こす。しかし、その体は既に冷たくなっていた。彼が昨晩なめしていたオオツノの毛皮を守るように覆い被さっていたせいか、妻の背にはいくつもの槍の傷が残されていた。
 彼は自身の拠り所を失ってしまったのだ。
 視線を上げると、妖精族達が侮蔑と暴力に歪んだ笑いを浮かべ、自分を取り囲んでいた。その瞬間、彼の脳裏にかつてない明晰なヴィジョンが浮かんだのである。それは彼の種族が未だ持ち得ないはずの、高度な抽象概念だった。
 ――旧き人である自分達は滅び、新しき人がそれに取って代わる。
 賢く貪欲な新しき人々は、地を埋め尽くし、海を越え、いずれ空をも我が物にしてしまうのだろう。それに飽きたらず、星まで手にしようとするのかもしれない。
 そして彼の種族は、その未来に割り込むことを許されないのだ、と――
 刹那のヴィジョンは過ぎ去り、彼の意識は亡き妻を抱きしめて震える一個人へと舞い戻る。その彼の正面に、彼を惹き付けた妖精族の女が立ちはだかった。
 女は美しかった。残忍な笑みを浮かべていてさえも。けれどももはや、彼が女に心を惑わされることはなかった。
 一日の終わりを告げるように、太陽が赤い衣を纏い、遠くの山へと姿を消そうとしている。赤い赤い光の中で、女が槍を振りかざした。
 彼は最期の時を待ちながら、高く、低く歌い始めた。仲間達と、そして自分自身へと捧げる、哀惜に満ちた挽歌を。

Fin.