果てしなき河の先に
第二話・遠まわりの微笑み
2004-07-10 by Manuke

「はい。もういいですよ」
 四十半ばほどの医師は、聴診器を外して言った。汐がたくし上げていたパジャマを降ろす。俺なんかは、あの聴診器のひんやりとした感じがどうにも慣れないのだけれど、汐は嫌な素振り一つ見せずにおとなしく診察を受けていた。
 医師が鞄に聴診器をしまい、俺の方へ向き直る。
「とりあえず、お子さんの状態は良好のようです。そもそもの原因が不明のため、これ以上のことは申し上げられないのが残念ですが」
「そうですか。ありがとうございました」
 俺は医師に礼を言った。
「……ありがとうございました」
 隣で汐も、ぺこりとおじぎする。そこに横槍が入った。
「何だよ、長々と診察しといて結局それだけか? 当てになんねえなあ」
 オッサンだった。汐の病状が改善したことを電話で報告したら、医師を連れてすっ飛んできたのだ。
「秋生さん、そんなことを言っては駄目ですよ。お忙しいところを往診に来てくださったんですから」
 早苗さんがオッサンをたしなめる。しかし、医師は頭を左右に振った。
「いえ、古河さんの言う通りです。医者の本分は病気を治すことにありますが、力及ばずに申し訳ない」
 そう言って深々と頭を下げた。
「いや、そんなことないっすよ。汐の体を診察してもらって、ほんと助かってます。ほら、オッサンも」
 俺は肘でオッサンを小突いた。
「ああ……悪かったな、今度埋め合わせする。なんなら、次の勝負ではハンデ付けてもいいぞ」
「いや、それには及びません。あれは真剣勝負ですから」
 医師は眼鏡のブリッジ部分を押し上げた。レンズがきらりと光を反射する。
「それに、私にも秘策があります。次に天下を取るのは古河さんとは限りません」
「そうかよ。いい心がけだぜ」
 ニヤッと不敵に笑うオッサン。あんたらどういう関係ですか。
「……ともかく、病状は回復したと見て良いでしょう」
 話を戻した医師に、汐が尋ねた。
「ようちえん、いける?」
「はい、二週間ほど経てば元気になれます。そうしたら、幼稚園にも通えるようになるでしょうね」
「汐ちゃん、良かったですっ」
 風子が後ろから汐に抱きつく。
「うん」
 汐も嬉しそうに笑った。ずいぶん長い間、家の中だけで過ごしてきたのだ――友達と遊ぶこともできず。小さな子供にとって、さぞかし辛いことだったろう。
「それでは、私はこれで。往診代は後日、診療所の方へお願いします」
 医師がそう言って立ち上がった。
「分かりました。じゃ、タクシーを呼びましょうか?」
「いえ、それには及びません。そう遠い距離ではありませんから」
 俺が尋ねると、医師はそれを断った。
「おう。それじゃ、またな」
「はい」
 オッサンの挨拶に頷くと、医師は部屋を出ていった。俺はそれを見送り――と言っても、狭いワンルームだから大した距離ではないのだけれど――、ドアを閉めて振り返る。
 オッサンと早苗さんが、汐を取り囲んで笑顔を見せていた。オッサンが風子の腕の中に収まった汐の頭をガシガシと撫で、早苗さんはその傍らで微笑んでいる。
 いつだって笑顔を絶やさない二人だけれど、やっぱり心労をかけていたのだろう。オッサン達の表情は昨日までよりもずっと晴れやかだった。汐は彼等の大切な孫であると同時に、不甲斐ない父親のために五年もの間親代わりを務めた、言わば二人目の子供とも言える存在だ。ずっと汐の容体を深く案じてくれていたに違いなかった。
 思えば、二人にとって俺は疫病神のような存在なのかもしれない。俺は二人の元から渚を連れ去り、そして失った。汐に対しても、危うく同じ状態になるところだったのだ。たくさん迷惑をかけて、それでもオッサンと早苗さんは俺を可愛がってくれる。どうすれば彼等の恩に報いることができるのだろうか。
 俺が彼等の輪に近づいていくと、風子が俺を見上げて言った。
「そう言えば岡崎さん。今日、風子が泊まっていってもいいですか?」
「……なに?」
「どちらかと言うと頼りない岡崎さんだけでは心配ですので。風子、汐ちゃんのお世話をしますっ」
「おお、いいぞ。好きなだけ泊まっていけ」
 と、勝手に答えたのはオッサン。
「着替えはどうするんですか、風子ちゃん?」
「後でおねぇちゃんに持ってきてもらいます」
「それなら大丈夫ですね」
 早苗さんまでが同意する。
「って、あんたら二人は無責任に……。
 風子っ! 子供がいるとは言え、嫁入り前の娘が男の家に泊まるのは色々と問題があるだろっ」
「……確かに、風子は魅力的だとご近所でも評判です。岡崎さんが野獣のようになってしまうのも無理はないかもしれません」
 風子は口元に手を当てて、眉を寄せる。
「いや。お前みたいに子供っぽい奴に、そんな気は起こさないけどな」
「岡崎さんは最悪に失礼ですっ! 風子、むしろ少女の可憐さとアダルトな魅力を併せ持つ、魔性の女と言っても過言ではないですっ」
「過言だろ……って、そういやお前は俺と同い年なんだっけ?」
 すっかり忘れていたが、こいつは本来俺と同学年として同じ高校に通うはずだったのだ――事故に遭って長期入院することさえなければ。もし風子が事故に巻き込まれなかったら、俺達はあの学校で知り合いになっていたのかもしれない。
 そのとき、ふと何かが心をよぎった気がした。あの学校、あの校舎の中を、ぱたぱたと駆け回る小柄な少女の記憶。それは、目の前にいる風子の姿ではなかったろうか。
 いや、そんなはずはなかった。俺は妄想を振り払う。風子は一日たりとも、あの学校へ通うことはなかったのだから。
「はい。風子、大人の女性です」
 すまし顔で頷く風子。全くもってそうは見えない。むしろ、小学生に間違われたって不思議じゃなかった。早苗さんとは違った意味で、年齢不詳な奴だ。
「だったら余計にまずいだろう。妙齢の女性が、軽々しく『泊まる』なんて言うもんじゃない」
 自分で言っておいてなんだが、『妙齢の女性』という形容はおよそ目の前の少女には似つかわしくなかった。実のところは『少女』の方こそ当てはまらないのだろうが、そう見えるのだから仕方がない。
 しかし、そこでまたオッサンが横槍を入れた。
「いや、大丈夫だろ。何しろこの小僧は、渚と同棲してながら結婚するまで手を出さなかったような奴だからな。野獣と言うより、飼い馴らした子犬って感じか?」
 くあ……このオッサンはまた古い話を……。しかも、その言われようはなんか腹立たしい。
「そうなんですかっ。朋也さんは紳士だったんですねっ」
 早苗さんまで妙に楽しそうだ。なんとなしに頬が紅潮してしまう。
「いや、だからですね。俺がどうこうってことじゃなく、変な噂が立ったらって意味で……」
「んなこと、誰も気にしねえよ。なっ、風子」
 オッサンの言葉に風子が頷いた。
「はい。むしろ風子のようなしっかり者がいれば安心だと言われるはずです」
「……いや、少なくともお前より俺の方がしっかりしてるぞ」
 俺が反論すると、風子もムキになって言い返してきた。
「風子の方がしっかりしてますっ。岡崎さんはどちらかと言うと頼りないです」
「甲斐性なしだからな」
 さらにオッサンが混ぜっ返す。
「くっ……。だとしても、ぼーっとしてる風子よりはマシなはずだっ」
「風子、ぼーっとしてませんっ。岡崎さんは失礼ですっ」
「ぐぬぬ……」
「ふーっ」
 威嚇し合う俺と風子。
 そのとき、袖がツンツンと引っ張られた。下を向くと、汐と目が合う。
「ふーこさんと、いっしょにいたい」
「い、いや。だからな……」
 じーっ。
 つぶらな瞳で汐が俺を見上げていた。
「う……」
 じーっ。
 そして、風子も黒目がちの目でこっちを見つめてきた。
「ううっ……」
 無言の圧力が俺をたじろがせる。そもそも俺は風子のためを思って言ってるのに、なんで責められているのだろうか。
「じーっ」
 早苗さん達までが、俺を見つめてくる。と言うか、オッサンは声に出していた。
「……ああ、くそっ。分かったよ、好きなだけ泊まってけ!」
 プレッシャーに屈し、俺は仕方なしにそう言った。
「イヤッホーウ!」
 オッサンが喚声を上げて、風子とハイタッチを交わす。何がそんなに楽しいのかさっぱり分からないが。まあ、汐も風子も嬉しそうだから、それで良かったのだろう。
 そのとき、早苗さんがはたと手を叩いた。
「そうそう。すっかり忘れてましたけど、新作のパンを持ってきてたんです」
 風子や汐と喜び合っていたオッサンが、その瞬間凍りついた。とても嫌な予感のする中、早苗さんは持ってきた手さげ袋に手を差し入れる。
「以前、風子ちゃんにプロデュースしてもらったパンを、わたし流にアレンジしてみました。名付けて……」
 そして、早苗さんは取り出した――その具現化した悪夢のような物体を。
「ウニ風味クモヒトデパン、ですっ」
 うにふうみくもひとでぱん……。一瞬、俺の脳はその言葉を理解することを拒否した。しかし、視覚から入ってきた情報が、否応なしにそこにある事実を俺に突きつける。
 つまりは、クモヒトデの形をしたパンなのだった。
 クモヒトデってのは、中央の丸い部分から細長い腕が五本伸びている、ヒトデの親戚だ。とてもリアリティのあるクモヒトデ型に形作られたパンが、早苗さんの右手に乗っている。はっきり言って、すげえ気色悪い。
「あの……それでウニ風味って……?」
 聞きたくはなかったが、聞かずに済ませるわけにもいかなかった。
「はい。本当はクモヒトデ味にしてみたかったんですけど、食べ物にはなりそうもなかったので、代わりに同じ棘皮動物のウニをパン生地に練り込んでみました」
 早苗さんは嬉しそうに教えてくれる。悲しいことに、想像した通りだった。
 俺とオッサン、そして汐はアイコンタクトを取る。
(どうするよ、これ)
(どうするって、てめえ……食うしかねえだろ)
(……いらない)
 関係ないが、この歳にして目で会話できる汐はもしかしたら天才かもしれない、という考えが脳裏をよぎった――もちろん現実逃避だが。
「しかもですね、実はこのパンには仕掛けがあって……」
 また、ごそごそと手さげの中を探る早苗さん。オッサンが小声で「……やめとけ」と囁いていることにも気付かない。
 そして、取り出したのは霧吹きだった。
「こうして、しゅっ、しゅって水分を与えると……」
 早苗さんが霧吹きでクモヒトデパンに水を吹き掛けると、その腕がくねくねと動き出した。
「ほら。種類の違うパンを重ねて、形状記憶パンにしたんです。どうですかっ?」
「いや、どうって言われても……」
 ずばり言っていいのなら、最悪だった。もしもこんな物がパン屋の店頭に置かれていたならば、俺だったら避けて通る。
 と、アイコンタクトに参加していなかった風子の様子が変なのに俺は気付いた。なにやら頬を赤く染め、息が荒い。
「か……可愛いですっ」
「お前、感性が変だぞ!」
 反応速度一ミリセカンドの高速ツッコミが我知らず炸裂する。
「そんなことないです。岡崎さんも本当は欲しくてたまらないと思っているはずです」
 言い返しつつ、風子はその物体に手を伸ばす。早苗さんがその手にクモヒトデパンを乗せると、風子はそれを胸元に抱きしめた。
 ほわーんとした表情で、風子は行ってしまわれた。腕の中では、パンが蠢いている。
 なんだかその光景にも、とても見覚えがあった――クモヒトデパンを除いて、だが。以前にもこうして夢の世界に旅立った風子を目の前にして、いろいろと悪戯したような気がする。もちろん、そんなはずはないのだけれど。
「オッサン、ちょっと来てくれ」
「ん、なんだ?」
 まあ、あろうがなかろうが、どっちみちやることは同じだ。
「こいつが我に返ったらさ、『俺が岡崎だ。進化したんだ』って言い張ってくれ」
「はぁ?」
 怪訝な顔をするオッサン。まあ、当然だろう。
「こいつがぼーっとしてるってことを証明してやろうと思ってさ」
 俺の説明に、オッサンはニヤリと笑った。
「ほお。面白そうじゃねえか」
「それで、どうしたのか聞かれたら、『脱皮したり取れたりくっついたりしてると、そのうち進化するんだ』って答えて欲しい。
 後は適当に、『とりあえずな』と言っといてくれ。いいよな」
「おう。まかせとけ」
 自信満々で胸を叩くオッサンを残し、俺は風子の後ろに回る。
 待つことしばし。
「はっ」
 ようやく風子が我に返った。
「ええと、何の話をしていたんでしたっけ……あれ?」
 目の前の人物が俺でないことに気付いたようだ。
「岡崎さんは、どうしたんでしょうか」
 オッサンはシリアスな表情で風子に告げた。
「俺が岡崎だ。進化したんだ」
「えっ……」
 風子が驚きのあまり絶句する。
「ちょっと待ってください。もう一度聞きます、岡崎さんはどうしたんでしょうか?」
「だから、俺が岡崎だ。進化したんだ」
「わーっ! 岡崎さんが秋生さんに進化しちゃってますっ。ど、どうしてなんですか?」
 パニックに陥る風子。
「脱皮したり取れたりくっついたりしてると、そのうち進化するんだ」
「まっ、待ってください! それはあまりに衝撃的な告白ですっ」
 風子は大騒ぎだった。確かに、衝撃的と言えば衝撃的かもしれない。
「岡崎さんはその、脱皮したり、取れたり、さらに進化したりもするんですかっ」
「とりあえずな」
「とりあえず、するんですかっ。そんな人がいるなんて、風子知らなかったです」
 なぜそう簡単に信じる。
「じゃあ、もしかして風子も進化しちゃったりするんでしょうか」
「とりあえずな」
「進化するんですか、ショックですっ。じゃあ、風子が進化したら早苗さんになったりするんですか?」
「いや……」
 ここで、不意にオッサンが指示してないことを言い出す。
「早苗に進化するには、レベルがまだまだ足りん。風子、お前がが進化したらまずは汐になる」
 指差された汐が、胸を張った。
「……しんか」
 ナイスアドリブ、ナイスコンビネーションだ。
「汐ちゃんですかっ。大ショックなような、ちょっと嬉しいような……。風子、複雑な気持ちですっ」
 幼児以下と言われて嬉しいのかよっ、と激しく突っ込みたいところをグッと堪える。
 頭を抱えた風子を見て、俺はオッサンに小声で言った。
「オッサン、もういいぞ」
 これ以上やったら風子の心にトラウマを残しかねない。が、オッサンは眉をひそめた。
「何言ってんだ? オッサンは退化した古河秋生、てめえの方だろが。俺が正真正銘の岡崎朋也なんだよ。てめえはパン屋で早苗とちちくりあってろっ」
 ……人選ミスだった。そのオッサンの膝に、パジャマ姿の汐がぴとっとしがみつく。
「パパ」
「よし、汐は良い子だ」
「くおっ、ジェラシィィィーッ」
 コンビネーション抜群なオッサンと汐。何しろ年季が入っている。にわか父ではまだ追いつかないのか。
 と、俺の横に早苗さんが寄り添った。
「こっちが秋生さんだったんですね。気付きませんでした」
 そう言って、早苗さんが俺の腕に抱きついてきた。
「さ、早苗さん……当たってるっす、その」
「はい?」
 早苗さんは無邪気に微笑む。
 その瞬間、オッサンの目がギラリと凶悪な光を帯びた。
「小僧、てめえ……。人の嫁にちょっかい出すとはいい度胸じゃねえか」
「あんたがさっき、『ちちくりあってろ』って言ったんだろがっ」
「はあ? んなこと、いつ俺が言った? 何時何分何曜日、地球が何回回ったときだ?」
「ガキかよっ。まだ一分も経ってねえって!」
 このオッサンは本当に無茶苦茶だ。
「けっ……しゃあねえなあ。ここはてめえの顔を立てて、俺が秋生ってことにしといてやる。感謝しろよ」
 嫌そうな表情でオッサンが言った。どうにもその思考には付いていけないものがある。
「……それじゃ、場所をまた代わってくれ」
「おう」
 俺が立ち上がると、早苗さんは腕を放した。その、ふにっとした感触が少しだけ名残惜しかったりしなかったり……。
「あ。こいつ今、ちょっと残念とか思ってるぞ」
「そうなんですか、朋也さんっ」
 ニヤニヤ顔のオッサンと、何故か嬉しそうな早苗さん。あんたら歳いくつだ。
「二人ともそっちで大人しく座っててくれよ、頼むから……」
「それだからヘナチン野郎なんだよ、てめえは。男ならガーッと行け、ガーッと」
 ガーッと行く相手はあんたの嫁なんですけど、などと言おうものなら無限ループにはまりそうなので無視しておく。
「おい、風子」
「仕方ないです。ショックですけど、秋生さんになってしまった岡崎さんを受け入れないといけません……って、いつの間にか退化してますっ」
 ようやく俺に気付いた風子が、また叫ぶ。よく考えて見ると、これって俺がオッサンより格下って言ってるのと同じかもしれない。自分で言い出したんだけど、なんか悔しい感じがする。
「何言ってんの、お前?」
「岡崎さん、さっきまで秋生さんになってました。それは、進化したからなんだって言いました」
 俺は大げさに肩を竦める。
「はぁ? 進化ってのはそんな急に起きたりしないぞ。ポ○モンじゃないんだから」
「え……あ……」
 目をぱちくりとさせる風子。なんとなく小動物っぽい。
「どうした?」
「いえ……ちょっと安心したような、残念なような……」
 残念なのか。
「やっぱり悪い夢でしたか」
「お前、ぼーっとしてるからそんな意味不明な夢を見るんだぞ」
「風子、ぼーっとしてないです」
 全然懲りてないのが風子らしい。
 しかし、この悪戯は色々とバリエーションが使えそうだ。

  《『話している相手をすり替える』の新たな境地を切り拓いた!》

 ……って、アホか俺は。
「そんなくだらないことはどうでもいいです。風子、すっかり忘れてました」
 そう言って、風子は手に持ったままのクモヒトデパンを顔の前まで持ち上げた。あれだけ時間が経っていながら、まだウネウネ動いている。これ、本当にパンなんだろうか。
「……どうするつもりだ?」
 無駄とは知りつつ、俺は尋ねた。
「もちろん、食べるに決まってますっ。せっかく早苗さんが作ってくれたんですし、こんなにも可愛いですから」
「止めといた方がいいと思うんだが……」
「そんなこと言って、きっと岡崎さんは後で風子の分も食べてしまうつもりです。そうは行きませんっ」
「いや、それは絶対にないから」
 もはや風子は聞く耳を持たない――最初っから持ってないという気もするけれど。
 風子はニコニコ顔で、蠢く腕の一本にかぶりついた。そのまま、もぎゅもぎゅと咀嚼する。
「きゅう」
 幸せそうな表情は変わらないまま、一気に顔から血の気が引いて蒼白になった風子が、ぱったりと床に倒れた。
「ふ、風子! だからやめとけって言ったのに……」
「ふーこさんっ」
 慌ててそばに寄る俺と汐。
「風子、今初めて知りました……磯の香りはパンに合わないってこと……」
「食う前に気付けって」
 倒れ伏したまま、それでも笑顔で言う風子に、俺はすかさず突っ込む。
 早苗さんはそんな風子を見て、困ったような表情で言った。
「風子ちゃんのお口には合いませんでしたか。残念です」
 そして俺に視線を移し、にっこり微笑む。
「朋也さんもひとつ、いかがですか?」
 うっ……。嫌な感じの汗が額からにじみ出る。
「そ、その……。俺、昼飯を食い過ぎたんで、今は腹に入らないっす」
「そうですか……。じゃ、汐はどう?」
 そして、矛先が汐に向けられた。割と物事に動じない汐が、その奇っ怪なオブジェを目にして怯んでいるのが分かった。
 いかん、助けなければ、と俺は思った。早苗さんを傷付けずに、やんわりと断る言葉を口にしようとしたとき、救いの手は別のところから差し伸べられた。
「早苗、やめとけ……。せっかく良くなった汐が、また寝込んじまうだろっ」
 勇者がそこにいた!
 傷付けないようにとか、やんわりとか、そういう心配り一切なしのストレートな言葉に、早苗さんの瞳が潤み始める。
「わたしのパンは……わたしのパンはっ……毒劇物だったんですねーーーっ!」
 ダッと、泣きダッシュで部屋を飛び出していく早苗さん。まあ、いつものことなんだけど。
 開け放たれたままのドア眺めて、小さくオッサンがため息をついた。そして、床に放り出されていたクモヒトデパン二つを拾い上げ、口の中に詰め込む。一瞬その眉間に皺が寄るものの、さすがに早苗さんのパンを食い慣れているオッサンは倒れたりはしないようだった。
 口の中の水分を吸ったのか、オッサンの口からはみ出た腕が妖しげにくねり始める。知らない人が見たら、深海で眠る蛸顔の邪神がよみがえったのかと勘違いされそうだ。
「それでも、俺は大好きだーーーっ!」
 大きく叫んでから、オッサンは早苗さんの後を追って部屋を出ていった。
 ぽつねんと取り残される俺達三人。
「風子、大丈夫か?」
 俺の問いかけに、風子が頷いた。
「どうにか……大丈夫です。おねぇちゃんが川の向こうで手を振ってるのが一瞬見えましたけど」
 三途の川と言いたいのだろうか。
「公子さん、生きてるだろっ」
「死んだなんて一言も言ってませんっ。ただ見えただけです。岡崎さんは想像力が豊か過ぎますっ」
 何故か俺の方が怒られる。
「いや、普通連想すると思うが」
「岡崎さんの常識は、普通の人の常識とずれてます」
 とりあえず、減らず口を叩けるぐらいには回復したようだった。まあ、不味いというだけで実害があるものじゃないだろうし。
 倒れていた体を抱き起こしてやると、風子は「ひゃっ」と小さな声をあげた。
「ん、どうした?」
「な、なんでもありませんっ」
 何故か顔を赤くした風子は、乱れた髪をささっと手で整える。
「……? まあ、とりあえずお前らはここで待っててくれ。俺も早苗さんを探しに行ってくるから」
 こく、と汐が頷く。風子も真剣な表情で俺に向かって言った。
「分かりました。残された汐ちゃんのことは風子がしっかり面倒を見ますので、岡崎さんは心置きなく散ってきてください」
「……なんで俺が、そんな死地に赴くような縁起でもない言葉で送られなきゃならん?」
 脱力感を覚えつつ尋ねると、風子は俺をきょとんとした表情で見た。
「え……。岡崎さんは早苗さんを泣かせた責任をとって、クモヒトデパンを早苗さんの前で食べてみせるんじゃないんですか?」
 そう言って、足が一本欠けたパンを俺に差し出してくる。
「絶対食わねえっ。第一、泣かせたの俺じゃないし」
「……風子、これが最後のクモヒトデパンだとは思えないです。いずれまた第二、第三のクモヒトデパンが、姿を変えて風子達の前に現れるでしょう」
 人の話なんか聞きやしない。
 しかしながら、風子の言うことはもっともだった。レーズンやカスタードクリームでおぞましい進化を遂げたアレが、ネオ・クモヒトデパンなどと名付けられて俺達の平穏な生活をかき乱すだろうことは、想像に難くない。
 同じ想像をしたのか憂鬱そうな表情の汐に、俺は語りかける。
「大丈夫だ。パパがきっと守ってやるからな」
「……うん」
 汐が嬉しそうに微笑んだ。そう、娘の笑顔を守れなくて、何が父親か。
「じゃあ、俺はちょっと出てくるからな。風子、間違っても汐にそのパンを食べさせようとしたりするなよ……って」
「――汐ちゃん、ちょっとこの先っぽだけ味見してみませんか。可愛い汐ちゃんが可愛いパンを食べるところ、見てみたいでむぎゅ」
 ぼふっと、だんごのぬいぐるみでツッコミを入れる俺。言うなれば、母の愛だ。
「言ってるそばから、やるなっ!」
 風子を汐のそばに残して出かけていいものかどうか、激しく不安に駆られる俺だった。

 アパートを出て、どっちへ探しに行こうかと思案する。
 けど、その必要はすぐになくなった。オッサンと早苗さんが、右手の方から連れ添って歩いてくるのが見えたからだ。
 早くも仲直りしたらしく、俺が出てきた意味はなかったようだった。まあ、あの人達は連日同じようなことをやってるんだから、心配いらなかったのかもしれないけれど。
「どうした、小僧?」
 俺の元まで歩いてきたオッサンが、タバコの箱をポケットから取り出しながら尋ねる。
 晴れた空から降り注ぐ陽光のせいで、午前中に降った雪はすっかりなくなっていた。路面のあちこちが多少濡れているのが、その痕跡を残す程度だ。
「いや、俺も早苗さんを探しに行こうかと思ったんだけど、必要なかったな」
「そうですか。ご心配かけましたね」
 早苗さんがにこやかに言った。さっきまで大泣きしていたのに、切り替えが早いというか……。
「気にしなくっていいっすよ。家族なんですから」
「そうですねっ」
 嬉しそうに返事をする早苗さん。本当にこの人はいつまで経っても若々しくて美人だ。
「こんなところに突っ立ってると寒いから、中に入ろうぜ」
 晴れているとは言え、三人とも上着を着ていない。俺が促すとオッサンは、
「まあ、待て。ちょっと一服するから」
 と言ってタバコの箱を弾いた。飛び出してきた一本をつまみ、口に咥える。
 多分、病み上がりの汐に配慮して、屋外で喫煙するつもりなのだろう。付き合う必要はないけれど、なんとなく俺と早苗さんはオッサンが吸い終えるのを待つことにした。
 ライターの火をタバコに近づけると、先端がオレンジ色に燃え始める。オッサンが大きく息を吸い、そして吐き出すと、紫煙が冬の大気の中に拡散していった。
「……で、何かあったのか?」
「何かって、何が?」
 曖昧な問いに尋ね返すと、オッサンは顔をしかめた。
「汐のことに決まってるだろ。
 あれは多分、医者の手に負える病気じゃねえ。それが急に良くなったというんなら、何かあったのかと普通思うだろうが」
 そういうことか、と俺は頷いた。
「風子が、ちょっとな……。何をしたのかは、俺にも教えてくれないんだけど」
 あいつは何か、人を癒す特別な力でも持っているのだろうか。だとしても、本人がそれを語りたがらない以上、俺が追求するわけにもいかない。
「そうですか、風子ちゃんが……」
 早苗さんが目を伏せて呟く。その顔は俯いていて、どんな表情をしているのかは分からなかった。
「ま、風子はてめえのことが好きみたいだからな。力になりたかったんだろ」
 オッサンがニヤついた表情で俺を揶揄した。
「違うって。風子が好きなのは汐の方だと思うぞ」
「こいつ、本当に鈍感だぜ……。だとしても、風子はお前ら親子を両方とも気に入ってるのは間違いねえ」
 それは、その通りなのだろう。風子のあの性格では、嫌いな相手にも分け隔てなく接するなどという芸当はできそうになかった。
「風子には、本当に感謝してるよ。風子だけじゃなく、ここのところ色んな人の世話になりっぱなしで、感謝してもしきれないぐらいだ――特に、オッサンと早苗さんには」
 俺は普段なかなか言い出せない言葉を口にした。
「水臭えなあ。いちいち気にしなくてもいいんだ、そんなことは」
 オッサンがタバコを咥えた口の端をゆがめる。
「……かもしれないけどさ。
 俺はあんた達の大事な娘をかっさらっていって、死なせちまった。その上、長い間荒れた生き方を続けて、父親としての義務を放棄してた。迷惑のかけ通しだな。
 それでも、あんた達は俺をずっと見守ってくれていたんだ。本当に、どうやって恩返ししたらいいのか分からないくらい、感謝してる」
 俺の言葉に、オッサンは頭をガリガリと掻いた。
「かっ……まったく、てめえはよ。んなこと、こっちの方がよっぽど思ってるぜ。な、早苗?」
「はい、秋生さんの言う通りです」
 頷く早苗さん。
「えっ……?」
 驚く俺に、早苗さんは優しい表情で語りかけた。
「わたし達の夢は、渚を幸せにしてあげることでした。本当に大切なものが何かを悟ったときから、わたし達は努力しました――渚が、もっと笑っていられるようにと。
 だけどあの子は体が弱くて、そのせいで辛い思いをたくさんしてきたんです。わたし達の前では明るく振る舞っていましたけど、人の輪に入っていけなくて苦しんでいるのは知っていました。知っていても、親にはどうすることもできなかったんです。
 けれど、それも朋也さんに出会ったことで変わりました」
「俺……ですか?」
 オッサンが口を挟む。
「渚が以前、学校の坂の下でぐずぐずしてたときに知らない人が背中を押してくれたって言ってたんだが、あれはてめえのことだろ?」
「ん……ああ、そうだけど……」
 そう、それは渚と俺が初めて出会ったときだ。俺はあいつの事情を何も知らないで、無責任にその背を押したのだった。
 オッサンがニカっと破顔する。
「やっぱりそうか。あいつ、晩飯のときにすっげえ嬉しそうに話してくれたんだぜ。見ず知らずの人が自分を応援してくれたって。俺は渚に、それはナンパだろって突っ込んだんだけど、あいつは違うって言い張ってたっけな。
 渚にとっちゃ、それがきっかけだったんだ。あれからあいつは、それまでよりもよく笑うようになった。悔しいが、それは親である俺達じゃなく、てめえのしたことだ」
 俺は知らなかった。自分の何気ない行動が、そんなにも渚の中で意味を持っていたなんて。
 早苗さんが続ける。
「一人ぼっちだった学校の中で、渚は朋也さんと出会ったことをきっかけに人との繋がりを得ることができたんです。そして、朋也さんが渚にとっての一番になりました。
 それからのあの子がどんなに幸せだったのか、わたしも秋生さんも知っています――もちろん、朋也さんもですよね。
 渚は悲しいことに長く生きることはできませんでしたけど、それでもあの子の人生は幸せに満ちていました。それは間違いなく、朋也さんのおかげなんですよ。だから、わたし達は朋也さんに感謝しているんです」
 そうだ。自分の行動が正しかったのか間違っていたのか、そんなことはどうでもよかった。渚がそれを嬉しいと思ってくれたのなら、それだけで価値があったんだと、やっと俺は信じることができた。
 俺は冬の空を見上げて、目を瞬いた。そうしないと涙が浮かんでいることがバレてしまいそうで、ちょっと恥ずかしかったからだ。でもきっと、この二人にはそんなことはお見通しなのかもしれない。
「もちろん、それだけじゃありません」
 早苗さんの言葉に、俺は視線を戻す。渚に似た、柔らかく温かい微笑みがそこにあった。
「渚といっしょになることを決めた日から、朋也さんはわたし達の子供になったんです。だから今のわたし達の夢は、朋也さんと汐が幸せになることなんですよ」
 オッサンも早苗さんの隣で頷く。
「早苗の言う通りだ。だからいちいちつまんねえことを気にするな、この馬鹿息子が」
「……ああ。分かったよ、クソ親父」
 そう言い合って、俺達はニヤッと笑みを交わす。ストレートな言い方よりも、そんなひねくれた照れ隠しが俺とオッサンには似合いなのかもしれない。
 この人達に出会えて、本当によかったと心から思う。そして、彼等の愛娘にも。
 悲しみはまだ消え去りはしないけれど、俺はもう二度と、渚と出会ったことを後悔しない。あいつの背中を押したのが間違いだとは思わない。
 長い長い遠まわりをして、俺はようやくたどりついた。そして、俺をそこに導いてくれたのだって、このオッサンと早苗さんなのだ。義務感からでは決してなく、俺は二人に恩を返したいと思う。
 恥ずかしくて面と向かっては言えないけれど、彼等は俺の愛する両親なのだから――

 部屋に戻ると、何故かまた風子が床に倒れていた。その背中を汐が心配そうにさすっている。風子のそばには、足が三本に減ったクモヒトデパンが落ちていた。
「お前、本当に懲りない奴だな」
 俺の呟きを聞き咎めたのか、風子は顔を上げて抗議する。
「……風子、悪くないです。このパンがあまりに可愛らし過ぎるのがいけないんです」
 そして再び力なくノビてしまった。
「じゃ、俺達はそろそろ帰るとするか」
 部屋に入るなり、オッサンがそう言った。
「なんだよ。まだ来たばっかりだろ」
「汐の元気な姿を見て安心したからな。パン屋も開けっ放しで来ちまったし」
「だから不用心だって……」
「ウチはずっとそうやってきたんだから、いいんだ」
 このオッサンは人が悪いのに人が良いという、とんでもなく矛盾した存在だと思う。
「朋也さん、もし何かあったら連絡してくださいね」
 ニットのカーディガンを羽織り、手さげ袋を持った早苗さんが言った。
「あ、はい。分かりました」
 オッサンもブルゾンに袖を通すと、風子に声をかけた。
「風子、この甲斐性なしのことを頼んだぞ」
 風子はむっくりと上体を起こす、まだ血の気は戻らないものの、真剣な表情で頷いた。
「頼まれました。風子の力で必ず岡崎さんを矯正してみせますっ」
 何やら泊まっていく理由が変わってきていた。
「ちょっと前ならいざ知らず、俺がなんか道に外れるようなことしてるか?」
 俺が文句を付けると、すかさず風子とオッサンが言い返してくる。
「性格が道に外れています」
「ああ。変な奴だよな、こいつ」
(……あんたらにだけは言われたくねえ)
 そう反論したいところを、ぐっと堪えた。ああ、俺って大人だ……。
「っと、忘れてた。早苗、それよこせ」
 オッサンは早苗さんから手さげ袋を受け取ると、その中からビニールの包みを取り出した。中にはパンが詰まっている。
「ほらよ。今日の分だ」
「あ、ああ。それは助かるけど……」
 一瞬躊躇する俺に、オッサンは頷いた。
「心配するな。この中にはあの怪しい生き物は入ってねえから」
 そう言って、俺の手に包みを押しつける。その傍らで、早苗さんが涙声で呟いた。
「わたしのパンは……わたしのパンはっ……」
 オッサンが『しまった』という表情になるが、時既に遅し。
「怪生物だったんですねーーーーーっ!」
 早苗さんが泣きながら外へ飛び出していく。
 オッサンは苦い表情で額を押さえたあと、俺達の方を振り返った。
「んじゃ、このまま帰るぞ。また明日にでも来るから」
「分かった。パン、ありがとな」
「さよならです」
「……ばいばい」
 挨拶を交わしてから、オッサンは手さげ袋に手を突っ込んで、クモヒトデパンを三つ取り出した――つーか、まだ残ってたのか。
 それを無理矢理口へ押し込んでから、大声で叫ぶ。
「ほへははいふひはーーーーーっ!」
 何を言ってるんだか分からない。オッサンはそのまま早苗さんの後を追い、部屋から走り出ていった。
 またしても、ぽつねんと残された俺達三人。慌ただしい退場だった。
「なんか、今日は久しぶりにあの人達のドタバタを見た気がするぞ」
 苦笑しながら言った俺に、風子が答える。
「きっと、汐ちゃんの元気な姿を見て安心したんだと思います」
「そうだな……そうだよな」
 ここのところの俺達はシリアスな問題に囚われ過ぎていて、心に余裕がなくなっていたのだろう。
「やっぱ、心配をかけてたんだろうな……。あの二人は優しいから」
 俺を見上げて、汐が頷く。
「さなえさんもあっきーも、すごくやさしい」
 俺は汐の頭に手を乗せ、その柔らかな髪を撫でる。
「さっきもな、『恩返ししたい』って言ったら『水臭い』って怒られちまった」
 そのとき、風子がかぶりを振った。
「恩返し、できてると思います」
「えっ?」
「お二人とも、今日はとても嬉しそうでした」
 変わり者ではあるけれど、風子はまっすぐな奴だ。だからこそ、その言葉は真摯に心へ響く。
「そうか……それで良かったんだな」
 何か特別なことなんかじゃなく、こうして日常を取り戻していくことがオッサン達への恩返しになる――それこそ、彼等の優しさゆえだろう。
 簡単そうに思えて、実は難しいことなのかもしれない。特に俺はつい不幸に囚われたり、自暴自棄になったりしてしまいがちだから。その俺が道を踏み外さずにいられるのも、やっぱりあの人達のおかげだった。
 俺、汐、風子の三人は、顔を見合わせて笑みを交わした。それはオッサンと早苗さんがこの家に残していった、幸せな温もりだ。そして――
「ところで、アレどうする?」
「風子、さすがにもう食べられません。可愛いヒトデには毒がある、と昔から言われてます」
「聞いたことないぞ、そんな言葉」
「……パパ。まだうごいてる」
「絶対パンじゃないよな、これ」
 ――ちょっぴり不幸も残していったのだった。

続く

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