2004-06-16 by Manuke

 しんしんと降り続ける、雪のかけら。
 曇天の彼方から舞い降り、それは辺りを白く変えていく。
「……パパ」
 腕の中の小さな命が、囁くように俺を呼んだ。
「なんだ……」
 俺の問いかけに、汐は微かに笑みを浮かべる。
「……だいすき……」
「……」
 涙があふれ、俺の頬を伝う――幾筋も。
「ああ……パパもだ……」
 大切な、大切な俺の娘。自分の命を差し出せば汐が助かるというのなら、いくらでも差し出そう。
(誰かこの子を、汐を助けてくれ……)
 けれど、俺はなんと無力なのだろうか――こうして、抱きしめてやることしかできないのだ。
 渚が命を賭してまで産んだ子だった。そして、ずっと寂しい思いをさせてしまった愚かな父親を、それでも好きだと言ってくれる優しい子だった。
 その汐の命が、何故失われなければならないのか。これが運命だと言うのなら、あまりにも酷過ぎる。
(誰か……!)
 胸が張り裂けそうな思いで、嗚咽をこらえながら俺は祈り続けた。
 ――そして、足音がした。
 冬空の下、俺達二人の方へ向かって、何者かが近づいてくる。静まり返った街の中、その人物は俺の前まで歩いてきて、立ち止まった。
「風子……参上」
 少女の声がそう告げた。俺は袖で涙をぬぐい去り、ぼやけていた視界をはっきりとたせる。
 そこに立っていたのは、知り合いの小柄な女の子、伊吹風子だった。風子は持っていた傘を差し出し、俺達に降りかかる雪を遮っていた。
 普段と異なる、どこかしら愁いを帯びた瞳が、俺と汐を見下ろしている。
「お前……」
「岡崎さんの願い、風子が聞き届けました」
 言いかけた俺の言葉を、風子が遮った。そして、手にしていた傘を左手に持ち替えると、右手を汐の上へかざした。
 その手から、小さな光が生まれる。俺が呆然と目を見張っていると、その光はゆっくりと、汐の額へ舞い降りた――周囲に降りしきる雪のように。
 そして、額に張り付いた光は次第に薄らいでゆき、やがて消えた。
 それは心の奥を揺さぶられる光景だった。
 蛍のように儚げな、小さな光。だけど、今は冬だ。そんなものがいるはずはないし、そもそも蛍は跡形もなく消えたりはしない。目の錯覚だったのだろうか。
「風子……今のは……」
 風子は俺の問いには答えず、差し伸べた手で汐の頬に触れる。
「汐ちゃん」
 その優しい声に応えたのか、頬をそっと撫でる手に反応したのか、汐がゆっくりと目蓋を持ち上げた。
「ふーこさん……」
「風子が来たからにはもう心配要りません。今はゆっくり休んでください」
 風子の言葉にこくりと頷くと、汐がまた目を閉じた。その体から力がすうっと抜ける。
「汐っ……!」
 その様子に取り乱しかけた俺を、風子が押し止めた。
「大丈夫です。汐ちゃんは疲れて眠っただけですから」
 汐の穏やかな寝息が伝わってきて、俺はようやく少しだけ安堵する。風子が続けて言った。
「諦めないでください、岡崎さん。汐ちゃんはきっと良くなります。
 元気になれば、どこへでもお出かけすることはできます。だから、今は汐ちゃんを暖かいところで寝かせてあげるのが先決です」
 この少女は、知っているのだろうか。医者に匙を投げられて絶望に駆られた俺が、あの夏の日を取り戻そうと、汐と二人で当てのない旅に出ようとしていたことを。
「そう、だな……。お前の言う通りだ。汐のために、諦めちゃいけないんだったな。俺は本当に弱い人間だよ」
 風子は俺の目をまっすぐに見つめた。
「いえ、岡崎さんは頑張ってます。でも……」
 ふいに気付く――その肩が、小さく震えていることに。その目尻が、わずかに涙を浮かべていることに。
「もう少し他の人に頼っても、バチは当たらないです」
(ああ、どうして俺の周囲は、こんなに優しい奴ばかりなんだろうな……)
 オッサンや早苗さん、芳野さんに公子さん、かつての学友達……そして親父。たくさんの恩を、俺はみんなから与えられてきた。いつか、それを返せるときが来るのだろうか。
「ありがとな、風子」
「風子、お礼を言われるようなことしてません」
「いいんだよ、俺が言いたかったんだから。素直に受け取ってくれ」
「分かりました」
 そう答えて、風子の口元に笑みが浮かんだ。俺が知っている普段の風子とは異なり、どこか大人びた雰囲気を感じさせられる眼差しだった。その瞳が穏やかに、俺の腕に抱かれた汐を見つめる。
 と、次の瞬間風子の表情が崩れた。
「汐ちゃんの寝顔、ヤバいくらい可愛いですっ。このままお持ち帰りしちゃってもいいですか?」
 ……いつもの風子だった。
「いきなり変なことを言い出すなっ」
「では、テイクアウトでもいいです」
「英語で言っても同じだっ」
 むー、と拗ねた表情を見せる風子。
「岡崎さんは本当にわがままです。きっと昔、通信簿に書かれたに違いありません」
「どっちがだよ……」
 落ち着いた雰囲気は霧散してしまった。すっかり、いつも通りだ。
 もっとも、今のやりとりで俺の気がずいぶん楽になったのは確かだった。こいつがそれを意識していたかどうかは分からないが。
「とにかく、風子はしばらく汐ちゃんと一緒にいたいんです」
 俺は溜め息をつく。
「……とりあえずアパートに戻ることにするが、お前も来るか?」
「ヘンなことしないなら、行ってもいいです」
 真面目な顔で、人聞きの悪いことを言う風子。
「何もしねえって」
「じゃあ、そういうことで」
「ああ」
 俺は汐を胸に抱き、立ち上がる。
 小振りだった雪は、いつの間にか止んでいた。空はまだ厚い雲に覆われたままで、日の光は遮られている――先の見えない俺達の今を暗示するかのように。
 それでも、隣に立つ少女に支えられて、俺はまた足を踏み出した。

果てしなき河の先に
第一話・天使の階段

「そう言えば、さっきのは何だったんだ?」
 少しだけ積もった雪を踏みしめ、俺と風子は帰り道を歩いていた。
 俺の腕の中では汐が、静かに寝息を立てている。ここのところ高めだった体温も、少し下がってきたようだった。
「さっきの、ですか?」
 風子が尋ねてくる。その右手には、閉じられた赤い傘がぶらぶらと揺れていた。
「ああ。お前が汐に手を差し出したときにさ、小さい星みたいな光が手のひらから現れるのが見えたんだけど……」
 自分で言っておいてなんだが、どうにも胡散臭い話だった。
「以前にも見たような記憶があるんだ、その光。どこで見たのか思い出せないけどな」
 デジャヴ、という奴だろうか。
 俺の説明を聞いた風子は神妙な表情で頷くと、目を閉じて言った。
「やっぱり、岡崎さんには見えましたか」
 そして目をカッと開き、左手の人差し指を俺に突きつけた。
「あれは風子の奥義中の奥義、ヒトデトゥウィンクルですっ」
「……は?」
「そう、真のヒトデ使いたる風子にだけ許された、究極奥義。
 さすがです、岡崎さん。ヒトデトゥウィンクルは普通の人には見えません。それが許されるのは、心の――」
 心の奇麗な人、という奴だろうか。思わず照れる。
「――汚れた人だけです」
「ちょっと待て!」
 コケそうになって、俺はようやく踏みとどまった。今自爆すると汐を巻き込んでしまうから危険だ。
「普通、それ逆だろっ。そういう場合、心の奇麗な人ってのが筋だろうが!」
「わけわかりません。岡崎さんはそういうのが普通な世界に住んでるんですか。やっぱり変わってます」
 同情するような目つきで俺を見る風子。なんか、すっごい悔しい。
「そういう意味じゃなくてだな……。ああ、もういいっ! このままじゃ話が進まんっ」
 俺は思わず叫んで、ゼイゼイと肩で息をした。
「で? そのトゥインクルとやらは、どういう意味があるんだ?」
「なごみます。ほわーんってなります」
 風子は拳を握り、真剣に力説する。
「……それだけ?」
「とても重要なことです。風子はさらに修行を積んで、いずれは夜空に輝くお星様を、全てヒトデに置き換えるという目標がありますから。題して、『天の光はすべてヒトデ』計画です」
 俺は想像してみた。
 独りぼっちの夜。涙がこぼれないように、上を向いて歩く。すると、そこにはびっしりと、きらきら輝くヒトデの大群が――
「こっ……恐え……」
「岡崎さんはとても失礼ですっ。
 いいですか、例えば太陽がたくさん存在する世界があったとします。そのせいで長い間夜が訪れなくて、そこの人達は夜空がどういうものか知らないんです。書物に残されている記録以外には。
 そこに日食が起きて、数千年ぶりに人々は夜空を見ることになります。そこに輝くのはお星様ではなく、たくさんのヒトデ達。どうなると思いますか?」
 相変わらず、風子の発想は突飛過ぎて理解に苦しむ。
「どうって……。大パニックになって、文明が崩壊するんじゃないか?」
 風子の眉がそばだてられた。どうやらお気に召さなかったようだ。
「そんなことないです。人々はほわーんとして、優しい気分になります。きっと世の中から争いごとが消えるはずです」
「いや、そもそもみんなが見えるわけじゃないんだろ? さっきの奴」
「大丈夫です。人は純粋なままで生きていくことなんてできませんから。誰もが心のどこかに汚れを持っているんです」
「……」
 ツッコミどころが多過ぎて、途方に暮れる。ある意味、風子はツッコミ属性持ちの天敵と言えるのかもしれない。
 けど……。
「ま、そうだといいかもな」
 多分、さっきの光は『ヒトデなんとか』などではないのだろう。それを風子は隠そうとしている。それなら今は追求せずにいよう、と俺は思った。
 少しの間、沈黙が二人の間に降りる。俺達は言葉を交わさずに足を進めた。
 穏やかな雰囲気が心地よかった。連日、汐のことで頭がいっぱいだった俺は、ずっと心に余裕のない状態だったのだ。事態が好転したわけではないけれど、風子が側にいてくれるだけで、ずいぶんと救われた気持ちになる。
 やはり人というのは一人でいては駄目なのかもしれない、そう感じた。
「……風子、ちょっと困ったことになりました」
 視線を前に向けたまま、風子が唐突に言った。心なしか、その頬が赤らんでいるように見える。
「どうした?」
「手袋を忘れてしまったので、左手が冷たいです」
 雪が止んだとは言え、確かに気温は低い。加えて、風子の着ているものは軽装なため、かなり寒そうだ。
 俺は汐を左腕に抱え直して、手を差し出す。
「俺もちょうどそう思ってたところだ。手、繋ぐか?」
 風子は俺の顔をちらっと窺うと、すぐに視線を戻した。
「……仕方ありません。利害の一致ということで」
 そう言って差し出された少女の手を、俺は掴む。想像した以上に小さな手だった。
「岡崎さんの手、温かいです」
「お前の手はずいぶん冷たくなってるな」
「手が冷たい人は心が温かいって言いますから、そのせいです。岡崎さんの手が温かいのは、その逆だと思います」
「あ、そ」
 他愛もない話をしながら、俺達は歩いていく。
 汐は静かに、俺の腕の中で眠っている。世界で一番大切な、愛しい娘。
 俺はこの子の父親だ。一度は逃げ出したけれど、もう二度と寂しい思いをさせないと心に誓ったのだ。だから、どんな結果になろうとも最後まで目を背けちゃいけない。
 それが分かっていても、俺の胸は不安に押しつぶされそうだった。今だって体の震えは止まらないままだ。
 風子にはきっとそれが伝わっているだろう。けれど彼女は何も言わず、俺の手を強く握っていてくれる――幼子のように手を引かれているのは俺の方だった。
 やがて、俺達はアパートにたどりついた。風子の手を離すと、ポケットから鍵を取り出してドアを開ける。
「狭いところだが、上がってくれ」
「知ってます」
「……もうちょっと社交辞令ってのがあってもいいと思うぞ」
 そこらへんは、実に風子らしいと言えた。
 ストーブを点けてから、汐をパジャマに着替えさせ、布団に横たえた。とりあえず、汐に苦しそうな様子はないことに安心する。
「はぁ……」
 その枕元で俺はへたり込んだ。思っていた以上に疲れていたようだ――体ではなく、心の方が。
「岡崎さんも少し休んだ方がいいです」
 そんな俺の様子に気付いてか、風子がそう言った。
「いや、その前に昼飯の用意をしないとな」
 時計によると、今は午前十一時を回ったところだ。汐はあまり食が進まない状態のため、最近のメニューは喉を通りやすいものにしている。そう手間はかからない。
「風子がやりますっ。岡崎さんは座っててください」
 俺を押し止めると、風子はハンガーに掛けてあった俺のエプロンを取り、身につける。パンダのマークに白黒チェック柄の、オッサンから譲り受けたものだ。小柄な風子には大き過ぎて、裾が膝下まで垂れてしまっていた。
「お前、料理なんかできるのか?」
「特訓の甲斐あって、風子の腕前は『三つヒトデ』のレベルに達してます。岡崎さんも、食べたら美味しさのあまりのたうち回ること請け合いですっ」
「『三つヒトデ』……? ああ、『三つ星』ってことか」
 しかし、のたうち回るほどの美味ってのは、あまり体験したくない気がする。
「まあ、とりあえずは頼む。汐が食べられそうな奴にしてくれよ」
「まかせてくださいっ」
 真剣な表情で頷くと、風子は料理の支度を始めた。小柄な姿が、くるくると台所を動き回る。こう見えて、意外と料理に向いていたりするのかもしれない。
 俺は汐の眠る方へ視線を移した。高熱の続いていた最近では見られなかった、穏やかな寝顔だった。ほつれて顔にかかった前髪を、指で梳いてやる。
 汐を見つめていた俺は、まな板の上で包丁が立てるトントンというリズムをBGMに、いつしか眠りの中へ落ちていった。

『――は、好きですか?』
 少女が喋っていた。
『わたしは、とってもとっても好きです』
 俺が愛した少女との、それは出会いだった。
『でも、なにもかも……変わらずにはいられないです』
 坂の手前で、足を踏み出すことに躊躇していた姿だった。
『楽しいこととか、うれしいこととか、ぜんぶ』
 先の分からない不安に脅えていた姿だった。
『ぜんぶ、変わらずにはいられないです』
 ああ、俺は本当に知っていたのだろうか。
 楽しいこと、嬉しいことが、何もかも変わっていってしまうという、その意味を。
『それでも、この場所が好きでいられますか?』
 俺は――

 目を開く。と、眩しい光が視界に飛び込んできて、俺は思わず目を瞬かせた。
「ん……」
 窓の外では、雲間から太陽が顔をのぞかせていた。雲の切れ目から、光がカーテン状に広がっているのが見える。
「……パパ、おきた」
 傍らから幼い声が聞こえた。
「起きましたか。あと少しで出来上がるので、ちょうど良かったです」
 体を動かすと、掛けられていた毛布がずり落ちる。箪笥によりかかった状態で寝てしまったところへ、多分風子が毛布を掛けてくれたのだろう。
「う……しお?」
 布団の上で汐は上半身を起こしていた。俺と視線が合うと、その表情がほころぶ。
「お前、熱はっ」
「なおった」
 あっけらかんと答える汐の額に、俺は手を伸ばした。
 汐本人が言う通り、平熱に戻っていた。医者に「これ以上長引くと命に関る」と言われながら、解熱剤でも氷嚢でも下げられなかった熱が、すっかり引いている。
「本当に……治ったのか?」
 にわかには信じられない俺に、背後から風子が声をかけた。
「岡崎さん、汐ちゃんはもう大丈夫です。今はまだ体力が落ちてますけど、すぐに以前の元気な汐ちゃんに戻れます」
 その言葉が心に浸透していくのと同時に、胸から熱いものが込み上げてきた。
「汐っ……!」
 俺は愛しい我が子を抱き寄せる。その小さな腕が、俺の背中に回された。
「……パパ」
 涙の雫がぼろぼろと頬をこぼれ落ちていく。けれど、それは雪の中で流した涙とは違う、温かいものだった。
 オッサンや早苗さんの気持ちが今は分かる。親にとって、子供は自分自身よりも大切な存在なのだと。あの人達は渚のためにかつての夢を諦め、代わりに新しい夢を見いだした――俺の夢が汐を育てることであるように。
 今はまだ幼いこの子が、やがて美しい娘に成長し、見知らぬ誰かと恋に落ちて、俺の元を巣立っていくその日まで……。
 それが夢だった。ささやかで、平凡で、大切な俺の夢だ。そして、そんなありふれた夢ですら手にすることができなかった渚のためにも、きっと叶えてやりたい。
 はるか昔から、ずっと続いてきたのだろう。親父とお袋から俺へ、オッサンと早苗さんから渚へ、そして俺達から汐へ。過去から未来へと繋がる、想いの連鎖だ。
 そして俺は、その夢を救ってくれたのがただの奇跡ではないと分かっていた。
 振り向くと、風子が手を休めて、目元に浮かんだ涙を指で拭っているのが見えた。俺は彼女に向かって頭を下げる。
「ありがとう……。お前が汐を助けてくれたんだな」
 風子は小さく首を振った。
「いえ。風子、何もしてません」
「だけど、現にお前からあの光を受け取ったことで汐は回復した。そうだろ?」
「それは……」
 風子が俯く。
「光は、元々風子のものじゃないです。人からもらったものです」
「だとしても、だ。あの光がどんなもので、どうやって風子の手に渡ったのか、俺は知らない。説明しづらいなら、言わなくてもいい。
 それでも、お前が汐を助けようとしてくれたことは本当だ。だから俺は、お前に感謝してる。ありがとう、本当に」
 汐を腕に抱いたまま、俺はもう一度頭を下げた。風子が、おずおずといった口調で俺に向かって言った。
「それなら……。一つだけ、お願いしていいですか?」
「ああ。一つと言わず、いくつでもいいぞ。お前が望むなら、俺の命だってくれてやる」
「そんなの要りません」
 速攻で切り捨てられる。そりゃまあ、もらって嬉しいもんじゃないかもしれないが。
 風子は胸に手を当てて、続きを口にした。
「幸せになってください。岡崎さんと汐ちゃん、二人とも」
 ……こいつはきっとそう言い出すのだろうと、俺はなんとなく予期していた。
「その願いはもう叶ってるぞ」
「いえ、まだです。もっともっと幸せにならないと、風子は満足できません」
「そうか。そりゃ世界ランキングに入るぐらいってことだな」
「はい。優勝を狙ってください」
 真顔で答える風子。俺は思わず苦笑する。
「なら、それは俺達だけじゃ駄目だ。俺と汐だけじゃなくて、周りにいる奴らも幸せになってくれなきゃな。もちろん風子、お前も含めて」
 一瞬、風子の瞳が動揺したかのように揺れたのは気のせいだったろうか。少女はすぐに笑顔になり、俺の腕に抱かれた汐に向かって言った。
「汐ちゃん。岡崎さんだけでは頼りないので、風子もお手伝いします。たくさん幸せになりましょう」
 状況が分かっているのかいないのか、汐はこくりと頷く。
「パパと、ふーこさんと、あっきーと、さなえさんと……。みんなでしあわせ」
 どうやら、理解しているようだった。幼児と思えないほどに頭のいい汐ならでは、だろうか。
 いや、本当は子供にでも分かるくらい簡単なことなのかもしれない。心が繋がっているからこそ、苦しいときに支え合える。楽しさをわかち合える。
 オッサンあたりに聞いたら、「てめえは何を当たり前のこと言ってんだ?」と怪訝な顔をされそうな気もするけれど。
「さてと。話はこの辺にして、昼飯はどうなった?」
 俺がそう尋ねると、風子は我に返った。
「風子、忘れてましたっ。ちょっと冷めてしまったかもしれません」
 慌てて食事の準備に戻る風子。
「もう調理は終わってますから、二人とも首を洗って待っていてください」
「って、処刑かよっ」
 やっぱりのたうち回るのか?
「間違えました。手を洗っておいてください」
「全然違うだろうが……」
 壁に立て掛けてあったちゃぶ台を引き寄せ、脚を起こす。反対側の脚は汐が手伝ってくれた。実に良い子だ。
 布団の脇にちゃぶ台を置き、俺は汐に向かって言った。
「よし、流しで手を洗うか。パパが抱いてってやるから」
 けれど、汐は首を左右に振った。
「ひとりでできる」
 甲斐性なしの父親のせいかもしれないが、汐はまだ小さいのに独立心が強い。言い出したら聞かない強情なところは、渚譲りだろうか。
「分かった。がんばれ」
 こくりと頷いて、汐は立ち上がった。体力が戻っていないせいか、少し足元がおぼつかない。
 はらはらと俺が見守る中、汐は転ぶことなく流しの前に置かれた台に上り、蛇口をひねる。手を洗い終えると、汐は手拭い用のタオルで水気を拭き取り、俺の元まで戻ってきた。
「できた」
 少し胸を反らして自慢げに言う汐。
「ああ、よくできたな」
 その頭を撫でてやる。少しくすぐったそうに目を細める汐は子犬のようで。自然と俺の顔にも笑みが浮かぶ。
 それが俺の望んでいた光景だった。他人からみれば平凡でささやかなのかもしれないけれど、俺にとっては一番大切なものだった。
「じゃ、俺も手を洗ってくるな」
 そう言ってから、俺は立ち上がって流しの前まで行く。親ともなると、愛娘の前であまりいい加減な生活態度は見せられない。怠惰な日々を送っていた一人暮らしのころと比べて、変われば変わるものだと自分でも思う。
 手を洗い終えると、ちょうど風子が料理を盆の上に乗せ終わったところだった。パンにポタージュスープ、ちょっと火が通り過ぎて炒り卵っぽいスクランブルエッグ、それにトマトのサラダ。
「……」
 ポタージュスープは多分冷蔵庫に入っていた紙パックの奴で、温めるだけのものだ。とても手がかからないので俺としては重宝している。パンはもちろんオッサンが焼いたものだった。どうせ余るからと持ってきてくれるため、現在収入のない我が家は本当に助かっていた。
 総じて、ほとんど手のかからないものばかりのように見える。いや、料理を引き受けてくれた風子に文句を付けるつもりなどないのだけれど……。
「岡崎さん、微妙に失礼なことを考えているような気がします」
「……お前、もしかしてエスパーだろ?」
「最悪ですっ。岡崎さんには食べさせてあげませんっ」
 風子の頬がぷうっと膨らんだ。料理を作らされた上に変なことを言われるのでは、風子が怒るのも当然だった。
「すまん。ただ、時間がかかった割にはあっさりした料理だなって思っただけだ」
 時計の針を見ると、料理を始めてから長針が一周以上回っている。
「見えないところに手が加わってますっ」
 良くも悪くも大雑把な俺の作ったものとは違って、風子の料理は手が込んでいるのかもしれない。だとしたら、かなり失礼なことを言ってしまった。
「悪い、謝るよ」
「風子、傷つきました。もうお嫁に行けません。責任とってください」
 大変ご立腹のようだった。
「ああ、なんだか分からんが分かった。貸し一つということで、何でも言いつけてくれ」
 と言うか、そもそも一つどころではない。
 風子は上目づかいに俺を見上げると、尋ねてきた。
「……本当にいいんですか?」
「俺に二言はないぞ」
 風子は頷くと、おずおずといった様子で切り出した。
「では……風子の心の傷を癒すために、岡崎さんにはヒトデ踊りを……」
 そこで突然、風子の頬が紅潮した。バタバタと慌てたように手を振り回す。
「やっぱり駄目ですっ。岡崎さん、お婿に行けなくなっちゃいます」
 いや、男やもめの俺が今さら婿になんぞ行くことはないと思うが。
「――そのヒトデ踊りってのは一体何なんだ? えっちなことなのか?」
 俺の疑問に風子は目を丸くし、ますます頬を赤らめる。
「岡崎さん、もしかしてエスパーですかっ」
「そうなのかよっ」
 激しく不安になる俺。『二言はない』などと大見得を切った以上、今さら後には引けないが……。
「いえ、そんなに過激な踊りではないです。エガちゃんみたいな感じにするだけですから」
「エガちゃん?」
 聞けば聞くほど、俺の不安はいや増すばかりだ。
「でも、岡崎さんがヒトデ踊りを踊ったら、風子、のぼせて鼻血が出てしまうかもしれませんっ。危険なのでやめておきます」
「そ、そうか。まあ、急がないから別の奴を考えといてくれ」
「分かりました」
 風子が頷く。こいつの考えることだから大した内容じゃなさそうな気もするが、俺の本能が警告を発していた。回避するのが無難そうだ。
「昼飯はそれで全部か?」
「あと、牛乳を……」
「じゃあ、そっちは風子が持ってきてくれ。俺はこれを運ぶから」
 風子に指示を出して、俺は料理の乗せられた盆を持ち上げた。ちゃぶ台の前まで持っていくと、汐がにこにこしながら座って待っていた。
「ん? どうしたんだ?」
 皿をちゃぶ台に移しながら尋ねる。
「パパとふーこさん、なかよし」
 邪気のない笑顔で言う汐。
「いや、そんなことないぞ。お互い隙あらば寝首を掻こうと狙っている、ギスギスした関係なんだ」
 マグカップと牛乳パックを持ってきた風子も、俺に同意した。
「その通りですっ。さっきまで岡崎さんは寝ていたので、風子の勝ちですけど」
「……しまった」
 思いっきり隙を見せた後だった。
 この場合、『寝首を掻く』というのは『毛布を掛ける』のと同義語なんだろうか。相手が寝ているときに毛布を掛けてやろうと、虎視眈々と狙い合う関係――残念ながら、あまりギスギスしている感じはしない。
「やっぱりなかよし」
 楽しそうに汐が微笑んだ。ストレートに言われると、ちょっと照れ臭いものがあった。
「まあ、とにかく飯にしようぜ」
 風子が牛乳を注ぎ終えると、俺達は「いただきます」と声を揃えた。
 驚いたことに、風子の料理はかなり美味かった。温めるだけのポタージュスープも、一手間かけるだけでずいぶんと変わるようだ。スープの中にヒトデ型の小さな人参がたくさん入っていたのはお約束かもしれないが。
「このヒトデも結構良くできてるな。公子さんは美術の教師だったらしいし、お前も才能があるんじゃないか?」
「以前ヒトデの彫刻をしたことがあったので、その経験が活かせました」
「ヒトデの彫刻、ね。お前がナイフで木を削ってる様が目に浮かぶようだ」
「……おいしい」
 我が家にとって久しぶりの団らんだった。
 ずいぶん長い間、汐は病魔に苦しめられてきた。その元気な姿を見ているだけで、気を緩めると涙がこぼれそうになる。今日は涙腺がかなり緩んでいるようだ。
 窓からは、すっかり雲の合間から抜け出した太陽が、冬の日差しを部屋の中へと投げかけていた。
 ふと俺は思い出す。確かさっきみたいなカーテン状の光を、『天使の階段』とか『天使のはしご』と呼ぶのだということを。すると、天使が降りてきて汐の命を救ってくれたと言うのだろうか。
 視線を戻すと、風子がティッシュペーパーを取って汐の頬を拭いていた。
「ほら、汐ちゃん。ほっぺにスープが付いちゃってます」
「……ん」
「はい、奇麗になりましたっ」
「ありがと」
 いや、と思い直した。天使は最初からここにいるじゃないか――それも、二人も。
 穏やかに過ぎる時間の中、俺は安らぎを感じていた。辛かった日々が終わり、何もかもが良い方向に向いていく、そんな風に感じながら。
 ……しかし、それが決して終わりなどではなく、新たな物語の始まりなのだということを、俺が知る由もなかった。

続く

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