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 うだるような暑さを、セミの大合唱がより一層増幅させていた。
 風はほとんどなく、全身から吹き出す汗のせいでシャツはぐっしょりと濡れている。
 ――夏。
 炎天下のアスファルトを歩いているとギラギラ光る太陽を呪いたくなるが、それでも冬よりはマシだ。水分補給に気を付けていれば、行き倒れて凍死という羽目にはならずに済むのだから。俺はそう自分に言い聞かせた。
 しかし、さっきから歩き回っているのに、一向に公園が見つかる気配がない。
 これ見よがしに『冷た~い』などと書かれている自販機は、金のない俺には無縁の存在だ。タダでいくらでも飲み放題の、公園の水飲み場こそが俺の友だった。
 この黒いシャツを着ていなければ、まだしも暑さは和らぐのだろう。が、俺のような旅烏にとって、この色は手放せない。
 何故なら――黒は汚れが目立たないからだ。
「汚いのう」
「そこ、うるさいぞ」
 いつの間にか、見知らぬ爺さんが俺の傍らに立っていた。奇妙な装束を身に纏った痩せぎすの老人は、暑さなど気にする風もなく涼しげな顔で笑っている。地元民だろうか。
 木陰でバッグを下ろすと、俺はため息を一つついた。木々の葉に陽光が遮られ、少しはマシだった。
 俺は公園のありかを尋ねようとしたが、それより先に爺さんが口を開いた。
「若者よ。おぬしは陰陽道について知っておるか?」
「知らん。別に興味もない」
 素っ気なく返した俺に、爺さんが苦笑する。
「なに、別におぬしを騙して銭を巻き上げようとなど考えてはおらんよ。第一、巻き上げるほどの金を持ってはおるまいに」
「余計なお世話だっつーの」
「先を急ぐわけでもないじゃろう。年寄りの繰り言に少しばかり付き合うてはくれんかの?」
 仕方なしに、俺は木に寄りかかって腕を組んだ。
「……で?」
 爺さんはニッと笑い、続けた。
「陰陽道ではの、万物の理法を解き明かせば、過去を見通し未来を見抜くことも容易いなどと言いよるが……所詮はただの大ボラよ。未来は定まってはおらぬのじゃからな」
「まあ、そうだろうな」
 俺が相槌を打つと、爺さんは表情を改めた。
「ならば、過去についてはどう思うかの? 過去もまた、定まってはおらぬとしたら?」
「過去は定まっているだろ。起こってしまったものは変えようがない」
「本当に、そう言い切れるかのう。例えば――おぬしが今しがたまで人ではなく、カラスだったとしたら? おぬしは人としての記憶を与えられ、作り替えられたばかりかも知れぬぞ。記憶が偽物であれば、過去をとやかくと言うことはできまいて」
「……」
 その無茶苦茶な理屈に、俺は何故か反論できなかった。
「記憶とまでは行かずとも、記録などいくらでも改竄できるじゃろう。ことに千年もの時が経てば、真実などいかほど残っておるものやら。ようは、辻褄さえ合うておれば良い。
 まあ、いずれにせよ過去を変えるなど、簡単にはできまいが」
「簡単じゃないどころか、俺には不可能に思えるな」
 俺が横やりを入れると、爺さんは意外にも頷いた。
「いかにも。そう考えるのが普通じゃろうて。神ならぬ人の手ではな。
 なれど、ここに半月ばかり過去へ己の魂を飛ばすことのできる者がいたとしたらどうする? あり得ざる時を生み出すことができる者がおるとしたら?
 人の業を超えたその力をもってすれば、半月も千年も程度の問題ではないかの?」
 今度は俺が苦笑する。
「それこそ、簡単に言ってくれるな」
「それを為すのは、わしではないからのう」
 爺さんは、くつくつと喉の奥で笑った。そして、
「届かぬと、思うか?」
 と尋ねる。
 俺は木の葉の隙間から見える抜けるように青い空を見上げながら、答えた。
「分からん。正直なところ、あまりに遠すぎるとは思う。
 が、試してみなけりゃ何とも言えないな」
「至言じゃの。実際に見てみれば、『萌え』も存外悪くはないものよ」
「……何の話だ?」
 問い返すと、爺さんはまた笑った。
「なに、戯れ言じゃよ。……さて、引き留めてしもうて悪かったの」
「別に、構わんさ」
 肩を竦める。
「最後におぬしと会えたのは、僥倖じゃった」
 そして――風が吹いた。乾いた、気持ちのいい風が頬を撫でる。
 何かを言おうとして、俺は我に返った。今、俺は誰かと話していたのだろうか。
 しかし、周囲を見回しても誰もいなかった。暑さのあまり白昼夢でも見たのかもしれない。
 そこでふと、傍らに紙切れが落ちているのに気付いた。人の形に切り抜いた、何やら曰くありげな代物だ。
 拾おうと俺は手を伸ばしたが、しかし風が一足先にその紙切れをさらっていった。
 夏風は紙人形を巻き上げ、どこまでも蒼い空の向こうへと運び去っていく。
『西へ――』
 そう声が聞こえたような気がした。
「……そうだな」
 どのみち、あてのない旅だった。路銀が尽きるまで、西へ向かってみるのもいいだろう。
 俺はバッグを肩に担ぎ直すと、真夏の陽が降り注ぐ中へと足を踏み出した。

Fin.

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