ORNITHOPTER
2000-10-09 by Manuke

 わたしは、夏の日差しの中に立っていた。
 ほんの三歩先に、お母さんがいる。もう、よく見えないけれど……。
「もう一度だけがんばろうと決めたこの夏やすみ……。
 往人さんと出会ったあの日からはじまった、夏やすみ……。
 いろいろなことあったけど……。
 わたし……がんばって、よかった」
 そう、本当に……。
 いろんなことがあった。
「つらかったり、苦しかったりしたけど……。
 でも……がんばって、よかった。
 ゴールは……幸せといっしょだったから。
 わたしのゴールは幸せといっしょだったから。
 ひとりきりじゃなかったから……」
「そうや。観鈴はもうひとりきりやない。ずっと、うちと一緒や。
 せやから……観鈴……」
 わたしはお母さんの言葉を遮って、言った。
「だから……、だからね……。
 もうゴールするね……」
「あかんっ……。
 これからやっ……。これからや言うてるやろっ……」
 ゆっくりと足を踏み出した。ずっと届かないと思っていた、幸せが待つその場所を目指して。
「観鈴……きたらあかん!
 これからや言うてるやろっ!」
 あと少し、あと少しでわたしは……。
 ぼんやりとしか見えないお母さんの姿を目指して、わたしは最後の一歩を踏み出す。
 そして……。
「ゴールっ……!」
 わたしは、お母さんの腕の中に倒れ込んだ。
「やった……。やっと……たどりついた。
 ずっと探してたばしょ……。
 幸せなばしょ……。ずっと、幸せなばしょ……」
「……。
 そんなん嫌や……。
 観鈴……。うち、そんなん嫌や……」
 お母さんがつぶやくように言った。
 ――お母さん、ありがとう。
 もう、その言葉も声にならなかった。
 体中の力が抜けていく。
「そんなん嫌やーーっ!」
 ――わたし、やっぱり親不孝だね。ごめん、お母さん。
 喋るだけの力は残っていない。それでも薄れていく意識を必死に繋ぎ止めて、わたしは目を開けた。
 すぐそばで見上げたお母さんの顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
 クールで、ぶっきらぼうで、格好良くて……。そのお母さんがわたしのために泣いている。
 わたしみたいに変な子を押しつけられて、本当はきっと迷惑だったはずだ。それでもお母さんは、わたしの本当のお母さんになることを選んでくれた。
 なのにわたしは今、お母さんを悲しませてる。
 それが少し心残りだった。
 わたしはせめて最後に精一杯の笑顔を見せることで、お母さんに感謝の気持ちを伝えたかった。わたしとお母さんの日々が、悲しみだけじゃなかったことを伝えたかった。
 お母さんが次の一歩を踏み出せるように。
 ――往人さんも、笑顔でいろって言ったから。
 力が抜けていく。お母さんの嗚咽の声がしだいに遠のいていく。
 これでいい。思い残すことがないと言えば嘘になるけど、この夏にわたしは一生分の幸せを見つけることができた。
 そらと出会って。
 往人さんと友達になって。
 そしてお母さんと仲良くなれた。
 これで、空にいるもう一人のわたしに、この幸せな記憶を届けてあげられる。悲しみに囚われている、もう一人のわたしに。
 そのとき、閉じかけた視界の外から白い光が目に届いた。
 夏の日差しよりも明るいのに目を眩ませない、不思議な光。それが辺りを白一色に塗り替えていく。
 初めて見るのに、なぜか懐かしい光。
「な、何や? 何が起きて……」
 お母さんの戸惑いの言葉が聞こえた。
 不思議なことに、光が辺りを染めていくとともに、わたしの中の苦しさが消えていくのが分かった。
「お……かあさん……?」
「み、観鈴!
 どないしたん? 苦しいんか?」
 わたしは首を横に振った。
「だい……じょうぶ。
 この光……痛みを消してくれてるみたい。
 どうして、かな?」
「そか……。
 観鈴が苦しくないんならそれでええねん。
 理由なんか……どうでもええねん」
 お母さんの目から涙がぼろぼろこぼれ落ちる。
『よく最後まで頑張りましたね』
 突然、知らない女の人の声が耳に、ううん、心の中に響いた。
 腰のあたりがもぞもぞする。視線を移すと、パジャマのポケットからぴょこっと人形が顔を出した。
 ――往人さんの人形だ……。
 家を出るときに、そらがくちばしにその人形をくわえて持ってきたんだった。
 往人さんがそばにいてくれるように思えて、わたしはそれをポケットに入れていた。
 その人形がポケットから這い出し、すっと宙に浮かぶ。
 光はその人形から出ているみたいだった。
「居候……、どっかそのへんにおるんか?
 おるんやったら姿みせんかい!」
 辺りは白い光に覆われていて、わたしとお母さん、往人さんの人形、そして小さなカラスのそらの姿があるだけだった。
『往人はずっとあなたたちの側にいましたよ。
 そして、私たちも』
 また声が響く。優しく、温かい声。
 たくさんの声が重なりあったような、不思議な声。
『ようやく、私たちの長かった旅も終わります。
 最後に幸せな記憶を勝ち取った、あなたたちのおかげで……。
 だから、その記憶を空に還す役目は私たちが代わります。
 そしてあなたは宿業から解き放たれ、どうか自由に……』
「どういう……ことですか?」
 わたしは往人さんの人形に問いかける。
『ここから先、あなたは彼女との繋がりを断たれ、普通の人として生きるのです。それを幸せな日々とするか、しないかはあなたが決めること。
 けれども二度と、その身に呪いが降りかかることはないでしょう。
 願わくば、あなたの未来にさらなる幸せが訪れんことを……。それこそが、私たち一族の千年の悲願なのですから』
 人形はそのままゆっくりと下に降りていくと、そらの前で止まった。
 そらは不思議な出来事に驚くようすもなく、じっと人形を見つめている。
『……時をさかのぼる禁忌を犯したがゆえに、無限に時の円環へ捕らえられし者よ。
 さあ、共に空へ記憶を届けに参りましょう。
 最後の法術師、そして私たちの息子、往人よ……』
「えっ?」
「……なっ!」
 わたしとお母さんの驚きの声をかき消すように、風が巻き起こった。黒い羽が白で満たされた空間を舞い……。
 そして、わたしとお母さんの前に、男の人が立っていた。
「ゆきと……さん?」
 それは間違いなく往人さんだった。
 クールな顔だち、鋭い瞳。でもその不思議な雰囲気が、どことなく親近感を感じさせる。
 往人さんの背中には、漆黒の翼があった。文字どおり、烏の濡れ羽色をした艶やかに光る翼が……。
「一体、どうなっとんねん……。
 黒いんは、居候より前に家に居着くようになった筈やろ? 一緒におるところも見とったし。
 なんでそれが居候に化けるんや?」
 お母さんのつぶやきに、往人さんはちょっと苦笑して言った。
「ま、色々とな」
「……往人さん、時の円環ってどういうこと?」
 わたしの問いに、往人さんは口をつぐんで頭を掻いた。
「禁忌を犯したってどいいうこと? 無限に捕らえられたって……」
「……分かった、説明する」
 往人さんは諦めたように言うと、ため息をひとつついた。
「つまりな、俺はやってはいけないことをやっちまったんだよ。
 力を全部使い果たしたとき、俺は思った。
 最初からずっと、観鈴のそばにいてやれば良かったと。最初からやり直せるなら、今度こそはと。
 その想いが、俺の意識だけを過去に飛ばしたんだと思う。俺はカラスとして観鈴と出会った。……自分が何者かを忘れて。
 でも、それは許されないことだった。俺はその代償として、無限に同じ時間へ閉じ込められることになった」
 往人さんの言うことはよく分からなかった。でも……。
「それ、わたしのせいなんだよね?」
「違う。自業自得だから、お前が気に病むことじゃない。
 閉じ込められたからって、別に難儀もしてないしな。
 国崎往人として、時にはカラスのそらとして生き、その人生――だかカラス生だかを終えたとき、また同じあの夏の日に戻っている……。
 ただそれだけだ」
「同じ時間をいつまでも繰り返す、ゆうことなんか?」
 お母さんの体の震えが伝わってくる。
「まあ、平たく言えばそうだ。
 大抵の場合、俺は繰り返していることすら気づかない。
 観鈴と関ることなく、腰を落ち着けて平穏な人生を送ることもある。死ぬまでずっと、旅を続けることもある。
 それぞれの俺は、別の生き方を選んだ無数の俺がいることを知らない。精一杯自分なりの生き方をして、そして死ぬ。それは誰もがやっていることだろう?
 全てを終えたあと、俺は同じ夏の日に帰る。ただそれだけの違いだ。
 そうやって俺は幾度も繰り返しながら、ようやくここにたどり着いた。
 後悔はしていない」
「ここ……に?」
「ああ。神尾観鈴自身を呪いから解き放つ、その選択肢に、だ」
 わたしは腕を往人さんのほうに伸ばした。
「じゃあ往人さんは……、往人さんはこの後どうなるのかな?
 目的を果たしたんだから、もう無限に繰り返さなくてもいいんだよね?
 ずっと、わたしの側にいてくれるよね?」
 差し伸べた手が往人さんの体に触れることはなかった。指先が往人さんの体を突き抜けても、そこにはなんの抵抗もなかった。
「……それは無理だ。
 無限には終わりがない。もしかしたら、始めすらなかったのかもしれない。
 俺は最初から、どこまでも続く夏を追いかけていく存在だったんだろうな。
 お前の幸せな記憶を空にいる少女に届けて、俺はまたあの夏の日に戻る。
 俺にとって無限に繰り返される『今』は、お前にとっては過去に変わっていくんだ。
 ……そして、二度と交わることはない」
「そんなの駄目っ!
 わたしは、往人さんがそばにいてくれなくちゃ幸せになれないよ。
 ずっと往人さんが同じ時を繰り返しているのに、わたしだけ幸せになんてなれないよぉっ!」
 あふれ出る涙でぼやけた視界の中、往人さんが口元に笑みを浮かべた。
「酷な言い方になるかもしれないが……。
 観鈴、お前は無理にでも幸せになってもらわなきゃ困る。でなければ、俺が時の円環に捕らえられたことが無意味になるからな。
 だから、ずっと笑顔でいろ。観鈴。
 そうして、お前には、お前自身の幸せを……」
 涙で歪んだ往人さんの顔は、泣き笑いのように見えた。
 わたしは込み上げてくる嗚咽を飲み込み、パジャマの袖で涙をぬぐって言った。
「……うん。わたし、笑顔でいるね」
 ずっと作りつづけていた笑顔。作り慣れたはずの笑顔。
 でも今は、笑っていられるのか自信がなかった。
「ああ。観鈴は本当に強い子だな」
 強くない。本当は強くなんかない。
「うん。わたし、強い子」
 お母さんのわたしを抱きしめる腕に力がこもった。
「あんた、ごっつ身勝手な奴やな……。
 この烏天狗男が」
「……人を妖怪みたいに言うな」
「その面で天使さんとでも呼んでほしいんか?
 お生憎様や、そんな黒い羽持っとる奴は堕天使ぐらいが関の山やで。
 めっさ目つき悪いしな」
 往人さんは苦笑した。
「……まあ、烏天狗よりはましかもな。
 とにかく晴子、観鈴のことを頼んだぞ」
「まかしとき。観鈴はこれでもかーってぐらい幸せにしたるわ。
 なんせうちらは……ラブラブ親子やからな」
「ああ、知ってるさ」
 お母さんの喉の奥で、くぐもった音がした。
 わたしとお母さん、往人さん、そしてそら。
 奇妙な取り合わせだったけど、短い時間だったけど……。
 それは間違いなく家族だった。
「それじゃ、俺はそろそろ行くよ」
 往人さんを引き止める言葉をわたしは持たなかった。
 ずっとわたしを責め苛んできたものが、今度は往人さんを苦しめているのが分かったから。
 それなのに、どうしてわたしは今笑っているのだろう……。往人さんがわたしのために自分を犠牲にしようとしているのに。
 ――それでも。
 あふれる涙を拭いながら、わたしは笑顔のまま言った。
「往人さん……。
 わたし、往人さんのことが大好きだよ。
 ずっとずっと……」
 ――せめて、最後は幸せな記憶を。
 往人さんが微笑み、黒い翼がゆっくりと広がる。
 そして……。
 白い光が消え、あたりは夏の日差しの中に戻った。
 わたしとお母さんの前にはもう往人さんの姿はなく、そらが小さな翼を広げていた。
 真夏の陽光が、ぽつんと置き去りにされた車いすを照りつけている。
 わたしたち以外は誰の姿もない。蝉時雨が遠くから聞こえる以外、ここには音もない……。
 ――ううん、違う。
 潮の香りを帯びた風が、わたしの耳にそれを運んで来てくれた。
 寄せては返す波の音を。
 遥かなる大気の力を受けて繰り返す、海のうねりを。
 ここは、空と海が交わる町だから。
 そらは翼を広げたまま、走り出した。わたしとお母さんの脇を駆け抜けて、まっすぐに……。
 翼が風をはらみ、その脚が地面を蹴ったとき、そらが羽ばたいた。少しだけバランスを崩し、それでも懸命にそらは羽ばたく。遥かな高みを目指して。
 そう、どこまでも高く。
 そらの小さな黒い影が果てしない蒼の中へ消えてしまうまで、わたしは息を潜め、ずっと空を見上げていた。
 そのとき、遠くから声が聞こえたような気がした。

『やっぱり羽がないと飛べなかった』
『当然だろ……。
 そんなに飛びたいんだったら、飛行機にでも乗れよな』
『それはやっぱり違うよ』
『なにが』
『自分の体で風を切る。それは、本当に自分で飛ばないとできないことだもの』
『そうか? 俺にはどっちも変わらない気がするけどな……』
『うーん、でもね……』

 それはかつて往人さんと交わした言葉。
 そして、交わさなかったはずの言葉。

『すーって飛ぶ飛行機じゃなくて、ぱたぱたーって飛ぶ飛行機があったら、ちょっといいかな』
『なんだそりゃ?』
『だからね、プロペラとかで飛ぶんじゃなくて、こうやって羽をぱたぱた動かして飛ぶ飛行機。
 それを背中に背負って、風を切って飛ぶの』
『羽ばたき飛行機か? そんなもの本当にあったら迷惑なだけだぞ。
 ガチャガチャうるさそうだし、上下に揺れて乗り心地最悪だろ』
『うー、どうしてそういうこと言うかなぁ……』
『……まあ、面白そうではあるけどな』
『うん! にははっ』

 単なる空想じゃないってわたしには分かった。
 それは、異なる未来への選択肢。
 往人さんじゃなくて、わたし――神尾観鈴の。
「……いってまったなぁ」
 お母さんが額にかざしていた手を下ろして言った。
 わたしはお母さんにしがみついていた手を放し、しゃがみこむ。
「観鈴?
 ……ああ、居候の人形やな」
 わたしはアスファルトの上に落ちていた往人さんの人形を拾い上げた。ずっと持っていた恐竜のぬいぐるみと一緒に抱きしめる。
 もう動かない人形。そこに込められた想いは、そらといっしょに旅立ってしまったのだから。
 お母さんに手を貸してもらってまた立ち上がる。ちょっとふらふらするけど、もう苦しくはない。
「お母さん、わたしね……」
「ん? なんや」
「これから楽しいこといっぱいするの。
 毎日お母さんと仲良く暮らして、お友達もたくさん作って……。
 それから、いろんなところに行って見たいな。わたし、この町以外のところはほとんど知らないから。
 おいしい物もたくさん食べたいね。不思議なジュースもいろんなのを試してみたい。
 それで、いっぱい、いっぱい幸せになるんだよ」
「……観鈴ちんは欲張りやな。
 でも、まかしとき。うちも徹底的に付き合うたるから」
「うん、それでね。
 そうやって楽しい人生を送って、それが終わったとき……。
 わたしはまた、この夏のはじまりの日にいるんだと思う」
「……」
 お母さんは何も言わなかった。
 ただ優しい目でわたしを見つめている。
「堤防の上で眠っている往人さんと会うの。そこから何が始まるのかを知らないまま。
 次の日、往人さんに声をかけるの。ありったけの勇気を振り絞って。
 『こんにちは。でっかいおむすびですね』って。
 繰り返し、繰り返し……。
 いつか無限を終わらせるために」
「終わりは……来るんか?」
「分からないけど、感じるの。
 どこかにある無限の終わり、そして永遠の始まりを」
 時の円環に捕らえられながら、ずっと探しつづける。
 それはたぶん呪いなんかじゃなくて……。
「あんたは頑張り屋さんやからな。
 うちがついてったることはできへんみたいやけど、きっとあんたのそばには別の神尾晴子がおるんやで。
 ごっつ不器用な女やけどな、どの神尾晴子もあんたのことを思ってるはずや。だから、困ったときはいつでも頼ってええねん」
「うん」
「……はあ、しっかしややこしくて頭痛うなるわ。
 とりあえず、家帰ろか? このまま突っ立ってると知恵熱と陽気のせいで日射病確実や。帰って素麺でも食いたいわ」
「わたし、流し素麺がいいな」
「……あんたが裏庭行って竹切ってくるっちうんなら、別に構へんけど」
「が、がお……。やっぱりやめとく」
 二人で顔を見合わせて笑いあう。
 今はまだ、追いかけていくことはできない。わたしに課された義務であり、権利でもあるもののために……。
 ――だから、いつかまた会うときまで……ばいばい、往人さん。

 浜辺に、男の子と女の子が立っていた。
 寄せる波が二人の足を濡らし、砂を洗い流していく。
 女の子は、足が砂の中に埋まっていく感覚が楽しくて、くすくすと笑っている。男の子はただ何も言わず、それを見ているだけだった。
 ふと、空を見上げた女の子が言った。
「あ、カラスさんだ。
 ちょっとふらふらしてる。まだうまくとべないのかな?」
「ああ、そうかもしれないね」
 男の子も、女の子が指差す先を見て目を細めた。
「でもすごいね。どんどんたかいところにのぼっていくよ。
 どこまでいくつもりなのかなぁ」
「さあ。
 たぶん……」
「たぶん?」
「どこまでも、だとおもうよ。
 ずーっと、どこまでも」
「ずーっと、かぁ。
 そうかもしれないね」
 二人はそのまま、小さくなっていくカラスの姿を見守り続けた。
 いつまでも、いつまでも……。

Fin.